己斐(西広島)から草津まで   2001.10.15
2006.3.28改訂
中川 正 制作


街道見どころ案内

JR西広島駅〜広島電鉄草津駅まで       4km     
  源左衛門橋 

 
JR西広島駅と広電西広島駅の間を、西国街道は西に向かう。約100m行くと,八幡川(はちまんがわ)に架かる「源左衛門橋」を渡る。
「行程記」には「長さ一間,石橋」と記されている。橋名は紫竹源左衛門なる人物が,増水で渡れずに困っていた西国大名一行のために,板を渡してやったことに由来している。
 
 西国街道と別れて、草津に向かう道の広島電鉄の踏み切りも「別れの茶屋踏切」と名づけられている。
  名物 かしわ餅 別れの茶屋


 源左衛門橋から約60m行くと,庚午新開を通って、草津の港に通じる道と西国街道との三叉路に出る。

 ここに「別れの茶屋」があった。広島城下からほぼ一里、見送りの人もここまで送ってきて別れを惜しんだという。

 今はパン屋さんだが、よもぎのかしわ餅が評判である。ひとつふたつ味見はいかが。    フジ棚の緑が生き生きとして涼しそう。茶屋の名残りを今に留めている。
   国道水準点★

 水準点とは水準測量にて土地の高さを求めた基準点。三角点同様、国土地理院が行う基本測量にて実施し、その総数は全国で2万2千点ある。

 明治時代に主な国道が実施されたが、当時の西国街道こそ国道であった証拠がこれで、高度は2m85cm。場所は西国街道が西広島バス下を通る地点の道路東添いにある。
       高須一里塚跡
 
 西広島バイパスのガードをくぐり、約250mのところに高須一里塚があった。
 高須一丁目7番あたりと想定されるが、今は何も残っていない。せめて立て看板の1つでも欲しいものだ。

 一里塚の塚松は、古い亥の子搗き歌に「高須の沖の二本松」と歌われたいた大木であったが、明治22年5月の初め、払い下げ入札にて切り倒された模様である。

          

                                       


                   上田宗箇流のお手前でもいかがでしょう。       

 街道の右側沿いに、茶道「上田宗箇流]家元の屋敷がある。上田宗箇は関が原の戦い以後、浅野家に仕え家老として広島入りし、小方一万六千石を領有した。太閤秀吉時代には既に越前一万石の大名で千利休、古田織部らと親交も深く、武将茶人として名を馳せた。大阪夏の陣では一番槍で首をあげるなど活躍し、徳川家康から激賞されたと伝えられる。茶人であるとともに作庭家としても名高く、広島の縮景園はをはじめ、和歌山城や名古屋城、旧徳島城の庭園など数多くの名園を残している。
 
  上田宗箇流 宗家

「上田宗箇流」は、地方都市では数少ない茶道の家元で、広島の伝統文化として市民の間に定着しており、昨年「上田宗箇没後350年記念事業」が盛大に行われたのは記憶に新しい。

                                                                                                  

西区 草津町へ

 上田家の前を過ぎた西国街道は、新宮神社の山裾をまわり,小さく左カーブを描き
ながらJR山陽本線の踏み切りを渡る。ここからが、西区草津町である。

     鷺森神社
 
「行程記」には「弁才天」と記載されている鷺森神社が右手の線路沿いにある。山陽本線敷設の際、現在地へ移設された。
 昔,この辺り一帯は海浜で、水深く漁船の出入りも多く栄えた港であった。村人たちは、古くから厳島の弁才天を祀り、豊漁と海上の守護を祈願した。

 村人からの信仰の厚い「弁天さん」が、鷺森神社と呼ばれているのは、神功皇后が草津の港で、御船揃いの儀式を行った際、夫婦の白鷺が見守っていたとの伝説によるものといわれる。
   
 神功皇后伝説(←クリック)
        海蔵寺
  
 左は「広電草津駅」に出る十字路を、右側に入りJRの線路を越えてすぐの小高い丘の上に「海蔵寺」がある。

 応永年間(1394〜1434)の創建といわれ、毛利時代は草津城主児玉家の菩提寺であった。浅野時代は東城浅野家の香華院として明治初年までつづいた。
 寺の縁略記によると,厳島合戦では毛利方の陣中に用いられ、毛利輝元の上京の際には当寺に宿泊したという記録もある。
北条氏直の墓 山中の娘 盛江の墓
 墓地には、東城浅野氏歴代の墓のほか、真偽の程は定かでないが、秀吉に攻め滅ぼされた小田原城主北条氏直のものと伝えられる墓がある。また、山中鹿之助亡き後毛利方に捕らえられ、その後草津吉和家に嫁いだ鹿之助の二女盛江の墓もある。
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