草津町から五日市まで  

2001.10.15
2006.3.28追記
(歩かれる方は上記地図[002kusatuitukaitimap5.gif]をファイルコピーし、         .
   適当な画像ソフトを利用して貼り付けと印刷をして、ご利用ください)     (山根 政則 制作)


●街道見どころ案内

草津町から五日市まで  4km  (本文:佐々木卓也、写真:中川正、山根政則)

鷺の森神社

 JR山陽本線と西国街道に挟まれ、昔は入り江となっていた場所で、鷺の群が飛び交い背後の行者山に居ついた。祭神は厳島神で草津城主・児玉就方以来の信仰が絶えない。 因みに社殿は厳島を遥拝し簡素な造りとなり、近世草津宿の東の守護神となっている。 (広島電鉄草津駅東北200m)

慈光寺 ★(06/3追記)

 文安4年(1447)海蔵寺の末寺の禅宗寺院として創建された。元禄14年(1701)日周上人がこれを譲り受け日蓮宗に改宗した。通称「草津の妙見さん」と呼ばれている

 境内には、神仏習合時代に見られた石の鳥居が今も残り、特長付けている。

海蔵寺
 行者山の中腹にあり、応永年間に中国の僧・慈眼が、出身の洞庭湖畔の海蔵峰に因み、深省楼雲上閣を開いた。毛利時代は草津城主の児玉就方の菩提寺となり、浅野時代に家老浅野孫左衛門一族の「香花院」となり、代々寺領を与えられ明治初年まで続いた。
また境内の墓所に小田原城主の子・北条氏直や、山中鹿之助の二女・盛江の墓がある。

 ★海蔵寺庫裡の裏庭には元禄年間に作庭された石組みの庭園がある。
(06/3庭園追加)

草津八幡宮
 戦国時代の厳島合戦に臨み、毛利方の船奉行の児玉就方は、草津城に入り前線基地を置いた。古来「軍津浦輪」と呼ばれ、山麓まで入り江となり、後に「草津」となった。 神武天皇や神功皇后の伝説が残り、福島時代には西の固めとして、「大門」と呼ばれる
関所が置かれた。広島城下と廿日市宿の中間で、間宿となり当社は鎮守の神となった。

小泉酒造
 通称「大門」と呼ばれる関所の門の金具が伝わり、明治18年に明治天皇行幸の休息所
に利用された。醸造される清酒は厳島神社へ献上され、草津宿を代表する老舗である。 (草津駅下車西北100m)
◎ここ酒造会社の代表的銘柄はなんといっても「御幸」です。長い伝統の製法でお勧め品。

西氏公徳碑 ★(06/3追記)

 西氏は草津町に居住する代々の医者で、三次藩の侍医でもあった。漢方医、蘭医として名医であったばかりでなく、慈善家でもあり、草津のかき養殖やかき船営業の育ての親とも言われている。
 代々書き残された医学書、蘭学書は200編700冊と言われ、その散逸を防ぎ、後世の研究に資するために昭和8年財団法人西医学研究所が設立され保管されている

住吉神社
 江戸時代は三次浅野家の一村で漁師町となり、波止場に守護神の住吉神が勧請された。 石見国浜田藩は参勤交代の際に、当地に御座船を停泊させ、大坂へと船をしたためた。 西部開発の干拓以前は広島一の魚市場が開かれ、西方には草津港燈台が現存している。 東方には「安芸国養蠣之碑」があり、当地の小林五郎左衛門が延宝年間に牡蠣養殖の
功績を記している。当時の夏祭りは勇壮なもので、港湾一帯は多数の舟船で賑わった。(草津駅西南800m)

JR新井口駅北
 西国街道はここから右方向に進み、井口の旧町並みを通り龍神山へと至る。左方向は
明治時代に新開地が開かれ、井口漁港や小己斐明神へ至るかつては砂浜が続いていた。 写真左が新井口駅、西国街道は右方に逸れてゆく。

龍神山の登り口
 江戸初期の「都志見往来諸勝図」に、沖合いの小己斐明神と龍神山が描かれ、山麓の正順寺北を西国街道が通っていた。街道はこの難所を登り阿瀬波=汗場に抜ける山道
となる。登り口には地蔵堂が置かれ旅人を見守り、山道には多少の石敷きも見られる。(JR新井口または広電商工センター西900m)

首無し地蔵
 龍神山の頂上部に大きな石仏が安置され、行き交う旅人の信仰が絶えなかったという。いつしか「首無し地蔵」と呼ばれ、西半町に一里塚跡もあり、絶景を一望できる名所
ともなった。井口小学校や住宅地の建設で、西国街道は消えうせ地蔵堂も移設された。(井口小学校正門左側)

がきの首地蔵
 江戸初期の「都志見往来諸勝図」に、汗馬の図に「がきが首」の岩場が描かれている。 汗馬とは汐入の干潟で、磯場に屹立した岩礁のがき=崖の首に、西国街道が山越えを
する。波寄せる難所でやがて地蔵堂が建ち、岩礁は開発で消滅したが、往時を物語る。(五日市駅東北800m駅前橋東詰)

五つ神社
 御祭神が5柱でいつしか社名となり、古来「えべすさん」と呼ばれていた。平安時代に大宰府に流される菅原道真が、船を着け暫しの休息をとった伝説もある。中世以来
の六斉市・五日市の名の出自とも言われ、鳥居前を西国街道が通っていたと思われる。

光禅寺 
 元は北方の池田城跡にあり五葉院と称し、永正年間に現在地に移転し現寺名を称えた。 南北朝時代に比叡山の三千宗徒を先導し、後醍醐天皇方で活躍した祐覚は寺僧である。 京都仏護寺十二坊の一つで浄土真宗の古刹でもあり、佐伯郡を始め信者を多数抱える。 梵鐘は広島市指定の重要文化財で、寺宝の多数は図らずも火災で消滅した。周辺には
最広寺・品正寺・正向寺等浄土真宗の寺院が立ち並び、五日市の旧町並みが展開する。


          

佐々木センセの一口噺

           
広島城下の元安橋から西へ向かって約1里半、草津の町並みが見えてきます。戦国時代に厳島合戦の際に毛利方の軍船を泊めたために、軍津(いくさづ)となりました。江戸時代には三次浅野藩の一漁村となり、やがて磯場の臭いで草津となりました。

井口には2里を示す一里塚跡が龍神山にあり、険しい山道を通っていました。山の東麓に湯が沸き湯口とか、山容が猪の口に酷似するとか諸説があります。かつて海中には名勝の小己斐明神の孤島が浮かんでいました。

 それから半里で五日市に出ますが、室町時代に漸く今の位置に浜集落ができました。当時は毎月5の付く日に、市が立つことからこの地名が生れました。また古社の五つ神社に因むとも言われます。広島藩は海老山の西一帯に塩田を開き、海老塩浜が開かれ塩屋神社は鎮守の神です。あまんじゃくの伝説は有名です。草津から五日市へ、江戸時代の初期に「都志見往来諸勝図」が描かれ、草津・井口・汗馬・八幡川と街道の風情が偲ばれ、道中絵図として面白いです。これらの浜から厳島へと通っていました。


●現地情報案内

●[草津まちづくり学校]世話人 田部 孝之氏 Tel 082-271-7056  
●当ホームページ世話人     山根 政則    Tel 082-276-1904 (草津町居住)        

●交通案内

 ●広島電鉄宮島線 草津駅または五日市駅より至近
 ●JR五日市駅より至近。 JR新井口駅は中間地として利用可。至近。