五日市〜廿日市宿〜廿日市宮内(地御前) 2001.10.15 塩形 幸雄 制作


廿日市は広島県西部で大きな宿場町のひとつ、また、津和野藩への街道の分岐点、津和野藩の船蔵もあります。また、厳島へも海路でつながっており、結構栄えています。 ここ廿日市は、この地域の中心であり豊かであったため、戦国時代では、毛利氏と陶氏がせめぎあいをしています。この合戦が厳島であり毛利氏が勝ったが、古くから厳島神社の影響が深い地域で関係する歴史が多い。 
 JR廿日市駅周辺にある天満宮からの眺め、本陣周辺の風情、街道松と見るべきものがある。ルートから外れるが地御前神社(厳島神社の外宮)とその周辺は見ものです

五日市〜廿日市 案内図





 五日市〜廿日市宮内ルートへのアクセス
(佐伯区JR五日市駅〜JR宮内串戸駅〜広電地御前まで6kmのコース)

 JR五日市から歩き始めてJR宮内串戸を過ぎて西国街道ではないが地御前まで歩くと4時間くらい。10時頃、JR五日市駅から五木神社にお参りしてスタート、松並を見ながら進む。
 廿日市宿の周辺で休憩、天満宮が眺めが良いのでここで弁当を食べると良い。それから、地御前の街並み、地御前神社まで見ることにすれば3時頃になる。
 帰りは、JR阿品駅まで歩くか、広電地御前まで戻るかしないといけない。JR阿品まで歩くと、距離があるので運動になりますが、海岸沿いなので潮のにおいがして気分はよい。

街道見どころ案内
五つ神社 (広島市佐伯区五日市)
 五つ神社は、古くから「えべすさん」として親しまれています。菅原道真が九州に流されるときに寄ったとも伝えられています。また、五つ神社は、古くからあり、五日市という名前の元になったとのことです。ほこらは小さいが、由緒があり興味深いものです。
五日市の街道松 (広島市佐伯区楽々園)
 五日市の街道松は、現在もルート上に残っています。松自体は、民家の中に立っており生活の中でしっかり根付いています。昔からくらべると枯れてきられたのか本数はずいぶん少なくなったのが残念です。

特報:写真のこの街道松は’03年2月、遂に切り倒されました。関連情報は「枯れ果てた街道松」をご覧下さい (03/3中川正制作)

一里塚跡石碑 (広島市と廿日市市の境)
 西国街道は、寛永年間に道幅二間半、三六丁ごとに一里塚が道の両側に設けらました。広島市五日市と廿日市市の境にちょうど一里塚の碑がある。ここは、広島元標(原爆ドーム近くの元安川沿い)から三里である。ここに、一里塚があったと思い浮かべながら見ると、懐かしい思いがします。(現地には、昭和57年に立てられた石碑がある。)

         

洞雲寺 (廿日市市佐方)
 廿日市市桜尾に城があった頃、この城主は宮島の神主でもあり、広島市西部からから大竹のあたりまでの広い領地を持っていました。筒雲寺は、その領主藤原教親、宗親親子が繁栄を願い1487年建立しました。戦国時代、大内、陶、毛利と支配は移っていきました。境内には、厳島の合戦で敗れた陶晴賢の首塚、毛利の武将の桂元澄、元就の四男穂田元清の墓がある。JR廿日市駅からの人は、ここにお参りをしてスタートするといいです。
廿日市の街道松 (廿日市市桜尾)
 廿日市の街道松は、大きいのが一本残っています。街道松とその周辺は、現在、道路としての区域にも指定されており、市役所が管理をしています。松も元気に育っており、市役所の配慮が行き届いています。
廿日市天満宮からの眺め (廿日市市廿日市)
 廿日市天満宮は廿日市の中央・篠尾山の小高いところにあります。この天満宮は、厳島の神主に任命された藤原親実が、鎌倉荏柄神社を1233年に勧請した神社で、今も、勉学の神として参詣者が詣でています。そこからの眺めは風光明媚、見晴らしはすばらしい。また、厳島も近くに見える。近くに見える現在の2号線が昔の海岸線なので、今はずいぶん埋め立てられたのが目でわかる。眺めがよいので、弁当を持っていれば昼食はここで
本陣周辺の町並み (廿日市市廿日市)
 廿日市は、広島から大竹間の中心どころ、江戸時代には本陣があったり、津和野藩の船蔵があるなど、交通の要衝でした。廿日市の本陣は、廿日市宿の中心にあり、大名や役人が宿泊するところでした。その本陣は山田家が代々勤め、今はなく石碑があるのみです。周辺は宿場町のメイン通りであり、反映していたのが見て取れる。近くにあった白壁の明治洋風建築は郡役所としてふさわしい建物だった。楠と石垣が当時の面影を忍ばせる。
地御前の道標 (廿日市市地御前)
 明治になって、地御前から大野浦まで海岸沿いに道路を改良した。地御前の町中にある路上の石が道案内をしてくれる。何が書いてあるかと読むと「右 広島道」とあります。標識のない当時としては心強い道案内役、今でも十分機能しています。
地御前の町並み
 地御前は、厳島神社の外宮である地御前神社周辺に発展した町であり、厳島神社への参拝者は通常ここまで歩いてきてここから参拝しました。参拝客は多く町には華やかさがありました。家々は立派なつくりをしており耳を澄ますと町の賑わいが聞こえてきそうです。

地御前神社
 地御前神社は、宮島への玄関であり、かつての波打ち際の松林だった場所に立っています。地御前神社は、厳島神社の内宮に対し、外宮社として創建されました。当時、厳島は、陸路では険しい物があったので、ここまで来て海中の鳥居から参拝をしたそうです。現在も管弦祭のとき、祭の船は、広電の線路を越えて、神社のところに船をつけます。神社は今見ても荘厳ですばらしい。


佐々木センセの一口噺

廿日市宿について

廿日市は厳島神社領平良荘の市場町として成立し、厳島神主家の居城である桜尾城の城下町でもあった。天正15年に豊臣秀吉の島津氏攻撃により、兵站路及び連絡路として山陽道の整備が行われ、毛利氏の命により町屋の入口を含め改修が行われた。江戸時代に館庁が置かれ、伝馬15匹を設けていた。宿のほぼ中央に本陣が置かれ、本陣役には山田家が勤番していた。町屋の北には天満宮の小阜が聳え、厳島合戦に因む古刹の洞雲寺がある。宿の東には石見津和野藩の舟屋敷と舟入が設けられ、西方宮内村まで西国街道と併用され、有名な夜泣き石で津和野街道となり分岐していた。また串戸で厳島神社への参詣路が分岐し、地御前神社方面へ至っている。平良で北方の速谷神社や極楽寺への参詣路が分岐し、古代以来の社寺に各々結ばれる。



参考図:廿日市,地御前地区 拡大図