廿日市から大野浦まで 

2001.10.15
2006.10.2改訂
山根 政則 制作
(歩かれる方は上記地図[004hatukaitioonomap.gif]をファイルコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付けと印刷をして、ご利用ください)     

  

●街道見どころ案内

廿日市市JR宮内駅〜大野町大野浦駅まで  10km        
一里塚跡石碑

西国街道は広島から一路海岸に沿って延びてきたが、この廿日市市に来て急に北方に折れ曲がる。理由は宮島付近が山が迫り海岸を通れないから。

廿日市市には町おこしの一環で一里塚跡が史跡として石柱で建てられている。一里(4km)
この石碑は専念寺側の旧道添いにある。

          
専念寺 (せんねんじ)

庭と家屋の造りが美しい景観を創っている。

この寺の境内に御茶屋があったと伝えられている。
西国街道・津和野街道分岐点石碑

昔、西国街道から出雲街道にここで分岐する。
今は県道30号線で大竹市から発する国道186号と合体し浜田市に至る。
江戸時代に赤ん坊の泣き声がしたという夜泣き石は近くの墓地におかれていますが、現在の石はその名残だとして、通称「夜泣き石」と呼んでいる。
分岐の石碑は現在は道路分岐点から西100mほど入り込んだ住宅街の小路分岐点に移設されている。 
                      (Photo:中村正)

リンク→津和野街道物語 (←クリック)
四郎峠/宮内村・大野村村堺

伝説の大野4兄弟のうち末弟の大野四郎がこの辺りを
切り開いたと言われている。
今川貞世歌碑 

 今川貞世(号は了俊・りょうじゅん)は応安4年(1371)足利義満から九州探題に任ぜられ、その任地に下がるとき大野を通過したとき景色を詩に詠んだ。

「とにかくにしらぬ命をおもうかな
わが身いそぢにおほの中山
昔誰が影にもせんとまく椎の
なおの中山かくしとげらん」
一里塚松跡

現在の道路から少し下がったところにある。
昔はこの地に一里塚があって川辺であり、旅人はここで喉を潤したのではないだろうか?

今は側に植えられた松も枯れてしまい石碑が淋しく
建っている。

        
三槍社 (みやりしゃ)

大頭神社の末社のひとつ。
高見川西の山麓に鎗谷地区があり、西国街道に沿う丘陵先端に鎮座しています。西北の山麓に大小三つの谷があり、槍状の谷間から命名されました。祭神は大山祇神で、雷神・山神・水神の三柱の神となります。
新宮神社 (しんぐうじんじゃ)

入り口の鳥居をくぐりその後の階段を登り小高い丘の上に建つ。
伝説の大野五郎のうち次郎を祭ったお宮。地元の人は「新宮さん」と言って親しんでいる。

次郎は村内の内土居というところに住み、屋敷は100m四方もあり、前には大堀を構え、左右に樹木を植えていたと記録されている。
高庭駅家・濃唹駅跡 (たかにわのうまやのお)

肥後の国の人、大伴熊凝(おおとものくまごり)が役人の供をして都にのぼる途中病気にかかり18歳でここで亡くなった。
それを伝え聞いて大伴家持がその心持ちを述べて和歌を作ったのがこの碑に記されている。
「出でて行きし日を数えつつ今日今日と吾を待たすらむ父母らも」
高畠溜池 (たかばたためいけ)

古代高庭駅家跡から西に進むと、緑のトンネルに入りジュンサイが覆う溜池があります。これは文政年間に編纂された「芸藩通志」の絵図に、西国街道沿いに描かれ、大野村で一番古い溜池で知られています。
大頭神社 (おおがしらじんじゃ)

厳島神社の末社として推古天皇11年(603)に建てられたと伝えられている。 平清盛が安芸の守であった当時から、毛利、福島、浅野の三家を経て廃藩になるまで、社領米を得ていたといわれる。

◎この神社と次の妹背の滝は隣接。休憩にぜひお勧め。
妹背の滝 (いもせのたき)

上の大頭神社の前が雌滝、上流のこの滝が雄滝である。
この滝は古くは「めおと滝」と言い二つの滝が音を響かせ雄大である。
この川は毛保川といい、西国街道から案内板にそって登ればすぐに神社が現れる。 神社に沿うように前後している。
西国街道と宮島街道分岐点石碑

昔は西国街道が主道として山間部を通っており、別に海岸に沿った幅の狭い路が存在した。明治になって海岸の道は自動車の通れる国道として整備され宮島街道と呼ばれるようになって、こちらが主道に変化した。
一里塚跡と今川貞世歌碑

大野駅前に所在する石碑。

先に解説した今川貞世(号は了俊)の説明は数多く歌を詠んでいるが、そのうち三首が歌碑としてある。

「おおのうらをこれかととえばやまなしのかたえのもみじ 色に出でつつ」

       
JR大野浦駅

JR大野浦駅の何の変哲もないホームだが、実はこの階段を上がって左に行くとその地平上に改札口がある。
ということは古代の街道は低地の海岸を避けできるだけ高さをもった台地の上を通していたことが推察できる。

佐々木センセの一口噺
津和野街道分岐点
JR宮内串戸駅から西国街道・津和野街道分岐点の辺りにかけては、慶応2年(1866)幕府と長州との戦いで戦場になり、多くの戦死者が出ました。 宮内小学校裏手の小高い丘には、幕府戦死者の墳墓があります。

 リンク:津和野街道物語 (←クリック)



●現地情報案内

 ●廿日市地区:廿日市観光協会 0829−31−5656  歩く参考には「西国街道 はつかいち 散策地図」があります。 入手は観光協会へ
 ●大野町地区:大野町役場    0829−55−2000    〃     「大野町史跡めぐり」があります。 入手は同役所へ

●交通案内

●廿日市地区から歩く場合はJR宮内串戸駅から歩き始めるのがよいでしょう。 一挙にも歩けますが、分けて歩くには、廿日市市内を東から歩き始め津和野街道分岐点まで歩きます。駅まではバスが利用できます。 続きは津和野街道分岐点からJR大野浦駅までを歩くという案があります。