大野浦から大竹市玖波まで   2001.11.16
06/11京大原爆調査班
遭難記念碑追記
 中川 正 制作

 廿日市の宿から四郎峠を越えて来た西国街道は、大野町筏津でようやく海浜を望み西進を続ける。JR大野浦駅の辺りは海岸線が迫っていた模様である。大野浦駅を過ぎるといよいよ四十八坂の難所に差し掛かる。大小48ヶ所の坂を上り下りして越えて行ったが、特に経小屋山の山中は難渋した所であった。途中何ヶ所かの石畳の道が残るが、勾配がきつく、土砂が流失するのを防ぐ石畳の道は旅人を苦しめた道であった。
 玖波の宿に入るまでは、山が海岸に迫り、小さい山越えの道が続いたが、自動車道の確保が急務であった明治政府は、西国街道に変わる新しい国道を早々に建設する必要のある場所でもあった。
街道見どころ案内
JR大野浦駅〜JR玖波駅            4km    
門山城址から大野浦を望む

 JR大野浦駅に降り立つと、眼前に経小屋山の雄姿が拡がる。
その前面で、今にも転がり落ちそうないくつもの大きな岩石を抱く峰が、門山城址のある城山だ。高さ265.6m、その正面は険阻で要塞堅固な城であり、眼下に街道と大野瀬戸を睨み威圧していた。大内、陶氏の安芸攻略の拠点となったが、厳島合戦で毛利元就に敗れるに及び門山城は壊滅した。

 
四十八坂(しじゅうはっさか)の入り口

 JR大野浦駅から西へ100m、塩屋二丁目で旧国道は大きく左に旋回する。西国街道は昔ながらの二間半の道が真っ直ぐに延びる。
 塩屋川を渡ると、いよいよ難所と云われた四十八坂にかかる。四十八坂は塩屋坂から鳴川の長峠までの総称で、大小四十八の坂か゜3kmにわたって続くと云われる。ひとつひとつ数えていても、いつしか数を忘れてしまっている。

向原石畳 1
 林原地区の昔ながらの二間半の道を700m歩くと、塩屋二丁目で別れた旧国道とまた出会う。そのまま西に進むと約150mで左下に降りる里道に入る。現在は大野町丸石と呼ばれている地区であるが、「向原石畳」の発掘された場所である。
 平成3年(1991)、草に埋もれて残っていた石畳道を発掘調査したら、ほぼ完璧な状態で現れた。約100mの調査を実施し現在は仮舗装されている。保存方法を検討中とのことであるが、せっかくの史跡を多くの人が見ることの出来るよう早く措置をして貰いたいものだ。
向原石畳 2

 写真は平成3年に発掘調査中のもの。
石畳の道(モニュメント)
 
 向原石畳道をあえぎながら登って、旧国道を横切ると「古代山陽道の史跡」の看板が見える。看板の左手の小道を降りると約50mばかりの石畳道がモニュメントとして残されている。
今川貞世の歌碑

 今川貞世(了俊)は九州探題として任地に赴く時、廿日市地御前の浜から山を越えて、大野中山に出て四十八坂に向かったと云われる。
「道ゆきぶり」に大野の景色を三首詠われているが、山中への入り口で大野の瀬戸を詠んだ歌碑が建っている。

 波の上に 藻塩焼くかと 見えつるは
   あまの小舟に  たく火なりけり
大野の瀬戸

 宮島をへだてた大野の瀬戸は波も穏やかで、名物の「牡蠣いかだ」が海面一杯に広がっている。海の恵みを受けての営みは昔も今も変わりない様子である。
06/11第2回旅にて見学追加
京都大学:原爆調査班遭難記念碑


 終戦当時、この地に大野陸軍病院が置かれており、広島への原爆投下後、多くの負傷者が収容されていた。その調査、対策樹立のため、京都大学医学部、理学部の教授陣が研究班を組織して来広し、陸軍病院で診療、研究に従事していた。
 昭和20年9月17日、枕崎台風の襲来により、山津波が起こり、病院は一瞬にして土石流により海中まで押し流された。このため、入院中の被爆者、職員の156名が死亡。また、当時の日本の最高権威でもあった京大教授以下11名の研究班員も殉職した。
 その業績をしのび冥福を祈るため、病院跡に記念碑が建てられた。三角形の壁四枚を組み合わせたデザインは、空高く舞い上がる人間の復活を象徴したものという。


残念さんへの山道 1
 
 経小屋山に向かう西国街道は、山陽自動車道の建設により完全に破壊された。今川貞世の歌碑から更に畑の中を進むと自動車道の橋脚にぶっつかる。自動車道に沿って西に向かうと左手に宮浜温泉の源泉地がある。左下が宮浜温泉街。  ここから西に100m進み、右手の高速道路の下をくぐり山道に入る。入り口に「ざんねんさん道」の看板が立てかけられている。
 時間が許せば宮浜温泉で汗を流して行きたい。
残念さんへの山道 2

 経小屋山は、平成11年5月に約1週間近く山火事で燃え続けた。山裾を通る西国街道から見上げる山には、黒く焼け焦げた大木の無残な姿が見受けられる。元の緑溢れる姿を取戻すには後何年かかるだろうか。
 山中に何ヶ所か石垣が残っている。こんな所にまで田圃を作り耕作していた模様である。一説には、江戸時代にかくし田が作られていたと聞く。
 山道は深くえぐれ、石が剥き出しになったところも多いが、地元の方の整備により、なんとか通り抜けられる状態にある。
 山中の所々に「残念さんへの道」の看板がぶら下げられている。
残念社
 第二次長州戦争の時、この四十八坂一帯は幕府軍と長州軍との激戦が繰り返された地であった。
 慶応二年(1866)7月9日、幕府軍の使者、宮津藩士依田伴蔵が単騎長州陣営に向う途中、長州軍の遊撃隊に狙撃され戦死した。「残念・・・」と一言洩らして死んだ伴蔵を悼み、土地の人々が祠を建てて祀ったものである。
 戦前には、その命日に丹波から船を仕立ててお参りに来たと云われ、屋台や芝居小屋まで掛かり、多くの人で賑わった。  今は山中にひっそりと佇む祠であるが、周囲はいつも掃除が行き届き、お花も取り替えられて、今なお、地元の人から大切に祀られている。
石灯篭の周りには、「しょうじょうばかま」が自生している。
吉田松陰、腰掛けの岩

 残念社の西30mの所に、吉田松陰が江戸に護送される途中で、はるか故郷を望み父母を偲んだと云われる腰掛けの岩がある。
 この場所は「三県一望の地」と称されているが、広島、山口の他に愛媛県まで遠望できるのであろうか。

  

  四十八坂の山中を抜けた西国街道は、「長峠」と呼ばれた最後の坂を海に向って下って行く。この辺りは随所に「西国街道」の看板が立てられており、初めて歩く者はありがたい。坂を下り切り、山陽本線の踏み切りの手前で右に曲がり鳴川に向って直進する。
 

鳴川の石畳

 コンクリートで固められた小さな川が「鳴川」で、かっては石がゴロゴロ転がって鳴り響いていたことからその名がある。
ここが大野町と大竹市の境界で、その西50mで道は途切れ、細い石畳の道が藪の中へ続いて行く。僅か30mの坂道であるが、昔の石畳がそのまま残り、西国街道の面影が偲ばれる処でる。
 

鉾の垰(ほこのたお)
 
 石畳に続く小山は、山陽本線のトンネルの上を越す200mばかりの峠であるが、少し前までは木々が茂り、草が繁茂して初めての人には、その道を閉ざしていた。今年の春、地元の人が木を切り草を刈って整備をしていただいたおかげで、なんとか通れることが出来るようになった。
 明治に入って海岸沿いに国道が敷設され、この「鉾の垰」や、少し先の[馬ためし峠」は廃道令が出て放置されてしまった。それでも「鉾の垰」だけは地元の「百姓道」として細々使われて来たようだ。
 「鉾の垰」の中ほどには、広島城下から七里の一里塚があった。  今は藪の中で何も見当たらない。

          
馬ためし峠と玖波トンネル
 「鉾の垰」から山陽本線の真上を金網沿いに降った西国街道は、秀吉が朝鮮に渡る船を作らせたという唐船浜に出る。入り江であったこの浜の向かいの小山が馬ためし峠である。明治12年(1879)明治政府は、いち早くこの峠の下にトンネルを穿ち国道を作った。それまで、唯一の幹線道であった馬ためし峠は、廃道になったまま、今ではその痕跡も残していない。なお、トンネルの横に新しい国道2号線がひかれ、鉄道とともに陸運の役目を果たし玖波トンネルは、時折、玖波宿を抜けた車が通過して行くだけの静かなトンネルとなった。
玖波宿

 広島から西、廿日市宿に続く宿場町として栄えた玖波の宿であるが、長州戦争によりそのほとんどを焼失した。馬ためし峠から西、お寺一つと民家一軒を残すのみであったという。残った民家は長州ゆかりの家だったとのうわさ話が残る。
 明治以降に再建された町並みも白壁や格子戸とともに、防火用の袖壁が多く作られ、静かなたたずまいをみせている。
高札場跡と角屋釣井

 宿場の中央で、現在、胡子神社がある場所に高札場が設けられていた。
 そばには、切石で四角に囲んだ井戸があり、「角屋釣井」と呼ばれていた。宿場の飲料水として重宝がられ、また水垢離にも永く使われた。
 現在でも手押しポンプで汲み上げた水は飲むことができる。

 西国街道はこの角を右折し北に向う。 
玖波本陣跡(洪量館)

 玖波本陣は高札場の50m西、JA玖波支店の前あたりにあった。寛永九年(1633)幕府の上使通行の際、家老上田氏が庄屋宅に茶室を設けたのが始まりといわれる。その後整備が進み、瀬戸内を望む眺望のすばらしさは諸国にも聞こえ、洪量館(こうりょうかん)と名付けられ、文人墨客の多く集まるところとなった。
 長州戦争の際、跡形も無く焼け落ちた。
 
 本陣跡から西に約100m直進すると、今コースの終着点JR玖波駅が右に見える。
途中、小城材木店の二階の屋根は「起り屋根(むくりやね)」と呼ばれる珍しい屋根である。ぜひ一見の程を。
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