玖波から大竹市木野まで  

2001.11.26
2007.1.23追加
山根 政則 制作
(歩かれる方は上記地図[006kubaootakemap2.gif]をファイルコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付け&印刷をして、ご利用ください)     

  

●街道見どころ案内

大竹市木野(この)〜大竹市JR玖波駅まで  8km       
JR大竹駅

西国街道出発点は県境川である小瀬川(おぜがわ)中流にある木野から始めてもよいし、苦の坂登山口から始めれば距離は短くなる。
JR大竹駅の出口は北口。バスは大竹駅北口正面より始発で出ているが、鮎谷行きに乗車し、どちらかのバス停に下車。

大竹市は人口3万2千人の都市であるが、工業都市の故か街がすこし淋しいように感じた。
両国橋(中津原バス停) (りょうごくばし)

バスは「中津原バス停」にて降りる。ここは木野から小瀬への渡し場のあった場所よりすこし上流で、現在ではここに両国橋がかかっている。この橋名は勿論安芸の国と周防の国を分かつ小瀬川にかかる橋であるから両国橋と命名されている。 今なら県境橋とでも言うのであろうか?
木野川(このがわ)の渡し跡 (07/1新規)

「木野川渡し跡」の遺跡が現在の両国橋の下流300mにある。(小瀬川は周防の呼び方、木野川は安芸の呼び方で同じ川)
木野川渡しは、木野村(安芸)と小瀬村(周防)から出された渡し守が3人ずつが昼夜3交替で務めは二人一組で両藩が交替して行った。渡し賃は、武士階級が無料、一般の人は江戸時代初期で米1合、中期から2文、牛馬が4文徴収されていた。

木野川は荒れる川で、洪水のたびに流れが変わり、周辺の部落を流出させた。治水対策として流れを弱める「小林三角和久」や「まき石護岸」(福島正則が築いたとして「福島堤防」とも言われた)がつくられた。これらの堤防は何百年も洪水に耐えながら今も写真の小林三角和久のように役割を果たしている。

図解は護岸の構造を示し、「小林三角和久」と下流のまき石護岸「福島堤防」の様子。渡し場はもっと下流に接続する。
津屋の本陣 (07/1新規)

木野川の渡しを控え、両岸の木野、小瀬には私設の茶屋が置かれ、休息や増水による川留めなどの時に諸侯の宿泊にあてられていた。木野には津屋と呼ばれた御茶屋があり、常時利用されていた、鍋島紀伊守から拝領した牡丹の絵が残されている。なお、小瀬には嘉屋という私設の御茶屋があった。
太閤の振る舞い井戸 (07/1新規)

木野の集落から小瀬川に沿って北上すると、街道の右下に湧き水の出ている井戸がある。

太閤秀吉が朝鮮出兵で名護屋からの帰途、村人がこの水でお茶を点てて差し出したところご満喫されたいへん喜ばれたところから「太閤の振る舞い井戸」と伝えられている。

現場はいつも清掃され注連縄と榊が備えられている。
長州戦役跡「苦の坂」入り口

ここで降車にすると、目の前が登山口である。
それにしても、小瀬川から登る苦の坂は「これが街道なのか?」と疑われるほどの急坂で450m続く。

1866年(慶応2年)幕府と長州軍が小瀬川を挟んで戦ったとき、本隊は海岸に布陣し側面隊がこの苦の坂にて対峙した。6月14日早朝、長州軍遊撃隊と幕府軍がこの坂をめぐって白兵戦を演じ、これに勝った長州軍が幕府本隊の側面に廻り挟み撃ちにした。これで勝敗は付き、幕府軍は多くの兵を残したまま船で遁走した。
滕池神社 (ちきりいけじんしゃ)

言い伝えによると、推古天皇時代(600年ころ)厳島神社の祭神である市杵嶋姫命が筑紫から安芸へ移るとき二歳の嬰児をつれてこの坂に差し掛かった。あまりの急坂で「えらや苦しやこの苦の坂は 金のちきりも要らぬものを」と呟かれ、大切に持っていたちきり(機織りの縦糸を巻く道具)を投げられたら、麓の池に飛んで行った。その場所に今の神社を建てた。そうして坂の名前も「苦の坂」と言われるようになった。 
橋姫神社

この苦の坂も峠から東への下りはなだらか。

麓御園町へ降りる途中には地元の信仰を集めている橋姫神社がある。
小方町旧街道 (おがたちょう) 

今は大竹市となった小方町には旧街道がよく保存されている。
その中には古文書を沢山保存する和田家があり、また古い水設備の雁木等も残っている。

けごろもの句碑

小方町の中にある。 これは句碑で、松尾芭蕉が1693年(元禄6年)に詠んだ「けごろもに包みてぬくし 鴨の足」の句が彫られている。

けごろもとは毛皮の衣のこと

1843年、つまり芭蕉の150年忌に近辺の俳句同好の人達によってこの記念碑が建てられた。当時は芸備地方の俳壇は隆盛で当地の俳人市川蘭史は「けごろも社」という句会を設立した。
亀居城址

1600年広島城主となった福島正則は対毛利に備えて小方の地に亀居城を新築したのは1607年(慶長12年)のことであった。城を新築したとの情報が幕府の禁令に掛かり、わずか3年後には新城を廃棄することになった。

1977年に亀居公園山頂付近で、公園整備のためにブルトーザが斜面を削っているときに石垣が出土した。これを契機に市の手で城址の発掘整備がなされたが、詳細は下記の物語にて。

リンク:発掘された亀居城物語 (←クリック)
西念寺 (さいねんじ)

亀居城への上り口の付け根にある。

浄土宗の寺。この宗派は宮島を主として周辺に広く広まった。
その後この付近は浄土真宗の波に覆われたが、当地ではこの寺が見事に浄土宗を貫いた。
稱名寺 (しょうみょうじ)

1538年(天文7年)開創の浄土宗の古刹。

この寺は玖波の宿で最も大きい寺院である。
寺院の後ろには洞窟の中に観音の石仏が祀られていたと芸藩通史に記載されている。今は風化して洞窟は現存しないが、後山の麓に石仏数体が安置されている。

古い石積みで歴史を検証
城の石垣もそうですが、すべての石垣の積み方で技術の歴史を物語っているのです。
上の西念寺の入り口の石組みを拡大すると右の写真のようになりますが、この組み方を見ると横に長い石が混じっていますね。 この方式を見ただけで、かなり昔、そう大体江戸時代初期に作られたものと判別できます。

亀居城にも関連した面白い石話があります。

 リンク:発掘された亀居城物語 (←クリック)


●現地情報案内

 ●大竹市市役所・教育委員会 大竹市小方1丁目11−1  TEL 08275−9−2111  
    歩く参考にはパンフレット「大竹の文化財をたづねて」があります。 入手は市役所内教育委員会へ
                    

●交通案内

●このコースを歩くにはJR玖波駅からコース通り西にたどって木野町方面に行くのが正当でしょう。しかしこの場合は木野町から大竹駅行きのバス便が少ないので不安定です。 そこで正確に時刻が知れるJR大竹駅発鮎谷(あゆたに)行きバスに乗り、木野(バス停名中津原)または苦の坂入口で降車して東へ歩き始めるのがお勧めかも知れません。