広島市内中心部 

2002.2.27 文 章:佐々木卓也
地図・写真:山根政則  
(歩かれる方は上記地図[008hiroshimacitymap2.gif]をファイルコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付け&印刷をして、ご利用ください) 


●街道見どころ案内

西広島駅〜広島駅まで   5km 
普通は東のJR広島駅から歩き始めて西広島駅に至るのかも知れませんが、会では西広島駅出発としましたのでその記述とします

JR西広島駅

JR西広島駅界隈
 己斐の町の基点で西区の表玄関です。己斐の地名は福岡県=筑前国の宗像郡許斐(コイ)村から神社を勧請したとか、神功皇后が長門の熊襲征伐の折に当地の県主がコイを献上し後に鯉村となったとか、諸説が渦巻きますが近くの旭山神社に登って思いを巡らします。
 中世に厳島神社は国衙領の地を神領化し、己斐村は山手川と己斐川の合流点として発達しました。舟運と西国街道=山陽道の敷設で、江戸時代には広島藩蔵入地となりました。
 広島城下と間宿の草津の中間地点として、古くから菓子屋や飲食店が建ち並び、植木商の成立は、広島郊外の農村経営を助長し、かつて花卉市場=旧花満が存在していました

滝の観音道標

瀧の観音への道標 (たきのかんのん) 
 西広島駅北と茶臼山山麓には、北方大塚村に至る里道があり、渓流に沿う谷間に昔から観音菩薩が祀られ、名水の湧水点に佇んで瀧の観音様と呼ばれていました。西国街道と分岐する地点に、菓子屋藤兵衛の銘のある道標があります。菓子屋の多い己斐の町屋は、現在急速に市街地化が進み、この道標も工事で廃棄される予定でしたが復元されました。

天満宮

天満町の要・天満宮(てんまんぐう)
 江戸時代初期に東の広瀬村の出作地で新開組に属し、普請小屋が所在したため小屋新町と呼ばれていました。その後西国街道に沿う広島城下の西の宿場となり、火災が頻発し水害も被り当地の有力者により、広島城下東の尾長天満宮より分霊し、天明8年に当地に天満宮が勧請されました。やがて町名も天満町となり、橋や川の名称も小屋から天満に改称されました。石工職人や井戸掘りの集まる町で、今もポンプ屋が操業しています。
 天満宮の境内には地元の努力で、被爆の前後の街並みを描いた金属製の地図があります。

頼山陽煎餅

頼山陽煎餅の芸陽堂
 堺町2丁目に店を構える「芸陽堂」は、明治44年に創業者が新たな広島土産をと考案したことによります。昭和27年に当地に移転し、芸陽の儒者頼山陽に因み、店主の平室賢氏が丁寧に焼き上げています。かつては堺町には「本川まんぢゅう」がありましたが、近年に閉店しましたが、天満町の林の餅屋と共に西国街道沿いの名物を絶やさないで欲しい。

出雲石見街道の分岐点
 西国街道の堺町1丁目から、北へ1本の脇往還が分岐します。出雲石見街道=雲石路と呼ばれる街道です。坪村家具店の玄関脇に分岐を示す道標がありましたが、道路拡幅のために現在空鞘神社の境内に移転しています。萩に転封した毛利家は、元就公の墓所へ通うため吉田往還とも称し、安芸国北部への重要な交通路で石見大森銀山・出雲大社・松江城下へ至っています。十日市はこの街道に沿う商店街で、寺町界隈に続いています。

本川橋 ・・

本川橋と雁木跡 (・・がんぎあと)                 太田川の本流=本川に架る橋で、西の堺町と東の中島本町を結んでいます。16世紀末期に当地の豪商の猫屋九郎右衛門兼鎮は、私財を投げ出し架けた橋で、当初は猫屋橋及び本川も猫屋橋川と呼ばれていました。西の猫屋町は豪商の名前に因み、やがて本川筋に川渡しや番船が発着し、特に本川胡子神社前では、厳島神社の管絃祭前にはおともん船で賑わいました。本川橋の橋脚下には、毛利輝元の島普請による石組が残り、雁木造りの揚場や、舟繋の石柱や船舶の燥場が護岸に設置され、今も遺構として存在しています。

雁木跡

旧大正屋呉服店跡(レストハウス)
 現在の広島市レストハウスは、元は国立三四銀行の跡地であり、大正末期に至り呉服店が開業しました。当地は古くに「船町」と言い、元安川には多数の船舶が集っていました。後に吉田の地から天満宮が勧請し、「天神町」となり西の中島本町の繁華街と共に、戦前は賑わいました。この呉服店もその名残を残し、当時では珍しい鉄筋コンクリート製のモダン建築でした。しかし原爆投下で辛くも全廃は免れ、生証人として存在しています。

道路元標

広島市道路元標
 元安橋の東詰に植栽に隠れてひっそりと佇む石柱があります。これが広島市道路元標で、江戸時代以来の里程の基点となっています。これから西国街道に従って、東西に一里塚が置かれ、上方・江戸や九州へと繋がっていました。当地には江戸時代に高札場として情報交換の場に利用され、細工町に郵便局が開設されました。旧細工町や猿楽町方面に繁華街が続いており、水陸の基点の元安橋から明治末年に北の相生橋へと移動しました。

               
爆心地

島病院横の爆心地
 昭和20年8月6日午前8時15分に、一発の閃光が虚空から落とされました。世界初の原子爆弾の投下です。当時相生橋のH橋が目標でしたが、若干東に振れ当地が爆心地となりました。世界文化遺産の原爆ドームを始め、平和を希求する広島人の心の原点です。

本通

本通の賑わい(ほんどうり) 
 広島一の繁華街の本通は、西国街道のメインルートでした。でも今の市民はその史実を知りませんが、元安橋から中央通までの間には、西横町・東横町・革屋町・播磨屋町・平田屋町と、老舗が軒を並べていました。現在のひろしま夢プラザは旧播磨屋町の跡にあり、当初播磨の商人により造られましたが、今は広島県民の情報・物産の中心地です。
 被爆以来の西国街道を巡る本通界隈には、江戸時代以来の名老舗がかなり残っています。

中の棚稲荷

中の棚稲荷神社(なかのたないなり) 
 江戸時代の広島城下には、南区の京橋町界隈と鯉城通=旧西塔川沿いに、東西の魚市場が立っていました。また堀川や平田屋川に沿い、新に魚市場が立ち西魚屋町=西塔川に対し、東魚屋町が誕生しました。その後魚の棚とも中の棚とも呼ばれ、宝暦8年に中心に京都伏見稲荷の分霊が勧請されました。中の棚稲荷神社は代々の商家により現在まで篤い信仰が続けられています。周囲には飲食店が建ち並び、広島の胃袋となっています。

中の棚橋遺跡

中の棚橋遺跡                          太田川の水は白島西南の羽子板堀から取入れられ、広島城の外堀や八丁堀を経て南流し、堀川から平田屋川に流れていました。その名残として金座街から中の棚に至る旧堀川・平田屋川を渡り、当時の石橋の遺構が残っています。現在も発掘すれば遺跡として広島の堀川端の状況が分りますが、江戸時代当時の石垣等も大切に地下に保存されています。

廣教寺

橋本町・広教寺(こうきょうじ)
 江戸時代の寛文年間に、広島城下に疫病が蔓延しました。当時に広教寺の高僧であった南柳上人は、本尊の阿弥陀如来に祈願したところ、薬師如来が現れ厄病は退散しました。その後二尊が共に本尊となり、旧町名は南柳上人の一字を取り「柳町」となったそうです。
 現在は橋本町に一隅にありますが、山門前の道筋も西国街道であった時期もあり、西面の金毘羅神社は、昔の明神市場の守護神で、明治末年には近くに「明神座」がありました。

市岐島神社

明神の浜・市杵島神社(いちきしまじんじゃ) 
 かつて京橋川の西一帯は柳の生い茂る川辺で、江戸時代から京橋の南には市杵島神社が勧請され、「明神の浜」と言われていました。厳島大明神は河口から来られた神様であり、御神体は北を向いています。旧暦の6月16日の夕刻には、管絃祭に行くおともん船=御共船と、護岸の上には高提灯の灯明が川面に映え、一幅の絵巻物が見られたそうです。
 明治時代に入り芝居小屋の「明神座」が置かれ、櫓太鼓が周囲に轟いていたと言われます。橋本町にはかつて「とっくり小路」があり、広島駅前の松原繁華街と共に栄えていました。

裏木戸

京橋川の裏木戸
 室町時代の末期に二葉山の麓に、古刹の「明星院」に通じる渡し場があり、明星院渡しと呼ばれ明星院川と言われていました。また白島地区から牛田の神田明神へも渡しがあり、後に神田橋となり神田川と呼ばれました。江戸時代の初期には西国街道に橋が架けられ、京に向かう橋として「京橋」が誕生して京橋川となり、明治以降は京橋川と呼ばれました。
 江戸時代には小路には武家屋敷の表門が、川辺には裏木戸が置かれました。裏木戸では日常の生活として洗濯等の他に、小舟が雁木造りの石段から生活物資を陸揚げし、反対に糞尿を船に載せていました。明治以降も舟運が残っており、その当時の生活遺産です。

猿猴橋

河童のいた猿猴川(えんこうがわ)
 京橋川は旧台屋町北の「だいおく鼻」で、本流と東の猿猴川に分流します。この河川には深い淵があり、古来猿猴=河童の住む川として伝説がありました。西国街道がこの川を渡り猿猴橋が架けられ、東一帯には宿場町の家並みができました。京橋町界隈は昔から繊維関連の業者が集い、藩営の的場や屋台の町でもありました。東の護岸には砂が堆積した大須賀ができ、その上にいろは48本の松並木があり、やがて松原町になりました。
 東の愛宕町には愛宕神社が、荒神町には三宝荒神が祀られ、共に竈の神となっています。
 また京橋・元安橋と共に石橋として残り、猿猴橋も戦前の面影を止める名橋の1つです。


佐々木センセの一口噺
西国街道の路筋は複数ござる
 広島市内を通る西国街道って「この路です」と特定の1本の路と決まっているとお考えでしょうね。
 実はそうではないのです。いくつもの路が平行して存在し、上の地図で見ると、京橋を渡ってすぐに南に折れ、銀山町に至る路が西国街道です。藩政時代には1・2本のルートが在りました。
 京橋を渡ってまっすぐ西進し京口門に至る路は藩主のための路で、西国街道ではありません。