岩国市柱野から欽明路まで(岩国市〜玖珂) 2002.4.5 
07/6追加
中川 正 制作


 岩国市から周防玖珂に越す欽明路峠は、人里からも離れ、西国街道の中でも難所の一つに数えられていました。
万葉集にも「たむけよくせよ 荒しその道」と詠まれた峠は、今は、自動車も通れる程度に整備されてはいますが、大正時代、国道2号線の建設にあたって、余りの急勾配のため、大きく北側を迂回するルートが採用され、この街道は難所のままとり残されてきました。
 
 玖珂町側に峠を下りたすぐのところに欽明寺という古いお寺がひっそりとたたずんでいます。少々きつい峠道ですが、傍らの草花を手に取り、うぐいすの稚拙な鳴き声に微笑みながら、のんびり歩くのも楽しい一日となるでしよう。道ばたの草むらでわらびを袋一杯摘み取ったこともありました。
 私のおすすめコースの一つでもあります。


交通案内  広島駅起点
  (往路)  JR広島駅 − 岩国駅乗り換え − 岩徳線欽明路駅下車 
  (帰路)   1. JR岩徳線柱野駅 −  岩国駅乗り換え − 広島駅
        2. 錦川清流線御庄駅 − 岩国駅乗り換え − 広島駅
        3. 新幹線新岩国駅 −  新幹線広島駅


      街道見どころ案内


           玖珂町欽明路ー岩国市柱野ー御庄  約 9km

 欽明路の峠道は厳しいアップダウンが続いています。とりわけ岩国側からの登りは、二軒屋を越して中峠にかかる道が急坂となっています。ウオーキングには、JR岩国駅から岩徳線に乗って「欽明路駅」で下車し、欽明路側から峠越えをする方が楽です。
 このホームページも、欽明路から柱野へ向かうルートでご案内します。

欽明路駅に集合

 岩国駅から岩徳線で約25分。欽明路トンネルを抜けるとすぐに「欽明路駅」に到着。無人駅である。

(2002年3月3日の「西国街道散策会」には約60人が参加。写真は出発前のミーティング風景)

西国街道を欽明路峠へ

 「欽明路駅」から北へ100m。東西に延びる道が西国街道である。(山口県内では「旧山陽道」と呼んでいるケースが多い)
 幅2間半の昔ながらの街道を右手にとり欽明路峠に向かって出発進行。


生まれ変わった分校跡
 
 約300m行くと左手に野口公民館がある。かっては玖珂小学校の分校であったが、本校に統合され、後をきれいにお化粧直しして、地域のコミュニティセンターとして使われている。
(トイレが利用できる)


周防源氏 武田屋敷
 
 約600m進むと左手の山の下に武田屋敷がある。
 小川に沿った小径を進むと、白壁を巡らした門構えの残る屋敷跡がある。甲斐源氏や安芸源氏につながる名門武田家は周防源氏として、ここで四世紀半生き延びて来た。
 邸内には武田信宗、光和の墓をはじめ代々の武田家の墓が並んでいる。
 武田氏は甲斐武田の庄に住していたが、承久の変の功績により、鎌倉幕府より甲斐と安芸の両国の守護を賜った。元徳元年(1329)、武田信宗の時に安芸銀山城を築き、守護として入城した。天文3年(1534)に没した七世光和に正妻との間に男子がなく甥の光広が家督を継いだ。その後、重臣等との間でゴタゴタが続き、八木城主香川光景は光和の愛妾との間に生まれた小三郎を城主にすべく毛利元就に助勢を求めた。援助を約した元就は小三郎と光和の正妻八重女を欽明路のこの地に匿った。  天文10年(1541)元就は銀山城を攻略し、光広は自刃、安芸源氏は滅亡したが、小三郎を城主に迎える約束は果たさないままであった。 
 その後、成人した小三郎は元就に仕え、影武者として元就の身辺を護った。やがて小三郎は入道して宗慶と称し周防源氏の祖となった。

宝光山 欽明寺

 武田屋敷から100m進むと、左手の高台に白壁の山門が見える。日蓮宗 宝光山 欽明寺である。
「玖珂郡志」などによると、欽明天皇(540〜571)が筑紫から都へ帰られる時、この地に御輿をたてられたので、欽明寺と名づけられたといわれる。
 昔は観音堂だけで、鎌倉時代には禅宗であった。延徳3年(1491)にこれが焼失、慶長8年(1603)に長門国の法華宗の僧が再建して日蓮宗となった。

 欽明寺の前の畑に高さ2m位の大石が立っている。昔、土に埋まっていたものを住職が掘り出したものというが、石仏と呼ばれている。
 欽明天皇が腰をかけて休んだ腰掛け石ともいわれるが背が高すぎて休息にもなるまい。
 境内にも別の腰掛け石がある。
崖を登った石仏 (07/6 新情報追加)

 畑の中ににょきりと立っていた石仏が見当たらない。ふと頭上を見上げると、なんと崖の上から見てござる。
 畑を埋めて境内を拡張し、駐車場を整備されたときに、石仏も境内に引き上げられたものらしい。他の石造物と同じように並べられているのを見ると、なんだかミステリアスな伝説が遠のいてしまったような気がする。
武田光和の供養塔

 境内に安芸銀山城主であった武田光和の供養塔がある。
そばの碑文には「営五十回忌法要 第三子 刑部少輔 武田小三郎」「天正癸未歳三月八日 欽明寺住職 四世日秀上人施行」とある。

 武田光和が銀山城で病死した天文3年(1534)から、50年たった天正11年(1583)に、この地に匿われていた武田小三郎が供養のため建立したものであろうか。


     欽明路峠
周防なる 磐国山を 越えむ日は
       手向けよくせよ 荒しその道

                     (万葉集 巻四 567) 


 万葉集のこの歌は、大伴旅人が大宰府長官として在任中、重病にかかり、都から見舞いが来た。幸い、旅人の病も癒えて、一行が都に帰る別れの宴で、山口若麻呂が道中を念じて送別に詠った歌といわれる。磐国山の荒れしその道は中峠、欽明路峠を総称したものとされている。                    

玖珂町側より欽明路峠を眺る
欽明路峠の地下はトンネルだらけ

 余りにも急坂なため、費用の面から国道は大きく北に迂回して建設され、一時は忘れ去られてしまった欽明路ルートであるが、その後、トンネル技術の進展もあって欽明路峠の下にはいくつものトンネルが敷設された。

○JR岩徳線の欽明路トンネル 昭和9年開通
(柳井回りの山陽本線が敷設されたのが、明治34年であり、その後33年が経過した。当初は旧山陽道に沿って敷設する原案であったが地元民が反対したため海岸線回りに変更したといわれる)
○欽明路バイパス  昭和47年開通
(当初は有料道路として発足。従来の国道2号線より、距離が7kmも短くなった)
新幹線欽明路トンネル 昭和50年開通
○山陽自動車道欽明路隋道

峠の頂上

 欽明路峠の頂上が岩国市と玖珂町との境界である。高さは210m、峠の名は麓の欽明寺に由来している。
 日ごろは車両の往来もほとんどない道であるが、3月3日の「西国街道散策会」の日は、思ったより車が多く「車注意」の声が何度もかかった。


峠の石仏

 頂上の三叉路左手の石にお地蔵様が彫り込まれている。
誰が、いつ頃彫ったかは定かでないが、その素朴な姿に、ちょっと立ち寄って手を合わせ、お供物を上げて行く人も多い。
 
 石仏の先、左手の山中に改修前の元の山陽道があったが、今では僅かに石組みが土中から見えるだけで、道を確認することはできない。




中峠

 欽明路山中でもう一つのピークが中峠頂上である。高さは190mで、その昔には「駕篭立場」や茶屋もあったと記されている。中峠から左手に800m行くと、山腹に馬頭観音がある。



滑り止めのあるコンクリート道路

 中峠頂上から50mばかり下ると急に傾斜がきつくなる。この下の欽明路バイパス入り口付近までの約500mは急勾配な下である。
 玖珂町側からの欽明路越えをおすすめするのもこの急勾配にある。岩国側からの道は二軒屋あたりから少しづつ上りがきつくなり、この500mですっかりスタミナ切れを起こす人が多い。
 写真のように横溝の入ったコンクリートを敷設して車の滑り止めがされているほどである。

二軒屋の一里塚跡


二軒屋には玖珂の野口から一里、岩国市西宇治から一里の一里塚があった。赤間関から33里、小瀬川から3里の位置にある。現在はその場所を確認できないが、「行程記」には二階屋で街道を横切る川の上手に一里塚の絵が書かれている。






      柱野宿

 二軒屋、一軒屋と渓流に沿って下っていくと、やがて欽明路バイパスに突き当たる。道路を越えたところが、柱野宿の入り口である。入り口は古宿で、江戸時代初期まではここに宿場市があった。
 古宿を出てから50m下がり、上市橋を右に渡ると柱野宿に入る。


 古宿

 古宿には江戸初期まで宿場市があったが、度重なる火災のため下流の現在地に宿場を移したといわれる。
 狭い谷あいの道筋に沿って、数十軒の民家が建っている。




千体仏 (岩国市指定有形民俗文化財)

 古宿の町並の途切れる前、柱野中学校跡の川向かいに、高さ10cmから20cmの地蔵像を沢山祀ったお堂がある。千体仏と呼ばれており、江戸中期の作で当初は千体あったが、水害などで現在は800体弱。保存状態は良く、彩色の状態も鮮やかである。
  説明板によると「千体仏は昔から信仰の対象物であって、信者が寺に詣でて法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び、これを本堂に移した後、位牌とともに仏壇に飾って読経を乞い、帰りに再び元の位置に納めて退出したと伝えられていた。
柱野宿

 柱野の宿は御庄川にかかる上市橋から下市橋の間の約600mの細長い市である。主要道路からはずれているため静かな家並みが残る。人影も少なく、家の前の日だまりで話し込んでいるお年寄りを見かけるのがせいぜいである。
 江戸初期に古宿から移転してきた柱野宿は、その後幾度かの大火に見舞われている。

 かっては、御庄川が柱野の入り口で大きく曲流して街並みの南側を流れていたが、昭和20年の台風により、御庄川が氾濫して壊滅的な被害を受けた。その後、川は現在のように街の北側を真っ直ぐ流れる様に付け替えられた。集落もその時再建し直されたため、街路幅も広く、家屋も比較的新しいものが多い。しかし、宿場町の雰囲気を強く残している街並みである。

 


(写真は街外れの小山から柱野宿を望む)

柱野本陣跡

 柱野本陣は宿場のほぼ中央、現在の下市集会所の場所にあったといわれる。脇本陣は本陣の向かい側2.3軒先にあったと地元のお年寄りが話してくれた。
 柱野宿と御庄宿とは一里弱しか離れていない。江戸中期以降は御庄宿の伝馬を柱野宿が請込んだとの記録がある。
 御庄宿は錦川の川渡り、柱野宿は欽明路の峠越えを控えての宿ではあるが、両宿が一体となって運営されていたものらしい。




 柱野宿をて約700m行くと、右手の向こう岸の山際にJR柱野駅が見えます。JR岩徳線は1時間に1本程度しか走っていないので帰りの時間は出発前にチェックしておきましよう。
 余力があれば、さらにもう少し足を伸ばして御庄まで歩きましょう。(御庄まであと2km)



思案橋

 柱野駅からさらに北上すると、約800mで右手に御庄川にかかる思案橋がある。本来地名をとって西氏橋と呼ばれていたらしいが、今では橋に刻まれている名前も「しあんばし」である。
 渡ろうか、渡るまいかの思案橋は、川西を通って岩国城下へ通じる道である。西からの旅人は欽明路の山中をやっとの思いで越えてきて、また、東からは関戸の峠を過ぎ、錦川の渡りもやうやく過ごして来ただけに、華やかな城下の賑わいへの誘惑にはさんざん迷った橋らしい。
 (鉄橋は錦川清流線のもの)
西氏の一里塚跡

 「行程記」には思案橋の上手に一里塚を描く。今は何の痕跡もないが、赤間関から34里、小瀬川から2里の位置である。
 「玖珂郡志」によれば、西氏は大内氏が山口に京都を写した時ここに宇治を写して「西宇治」としたのが始まりという。お茶の名所とも書かれているが、周辺には茶畑は見あたらない。 

         


 3月3日の「西国街道散策会」はがんばって御庄まで足を延ばしました。時間の関係で御庄宿には立ち寄らなかったが少し心残りでした。
 錦川清流鉄道の「御庄駅」から岩国駅経由で帰途につきました。なお、新幹線「新岩国駅」もすぐ隣にあります。

リンク! せっかく西国街道を岩国までお出でになったのなら、
ぜひ錦帯橋や付近の名勝を観光されることをお勧めします。(^_^)

錦帯橋付近の観光案内を添付しました。 下記ロゴをクリックしてください。


        
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