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| 安芸の西国街道を行く
海田市宿〜府中〜猿猴橋 |
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| 塩形幸雄制作 2002/6/20掲載 . | 75人のメンバー達 5/26 |
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地域の成り立ち |
| 猿猴橋〜府中〜海田市宿 案内図 |

| 猿猴橋〜府中〜海田市宿 ルートへのアクセス | |
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私達の足どりは、JR海田市駅からすぐ西に向かわず、開田の宿場内の残っている施設を見ました。海田市の繁栄の姿が見て取れます。その後、船越峠に向かいました。ここは、道路幅もほぼ昔のままなので車が多いのを除けば昔の雰囲気が味わえます。府中町内は、拡幅され所々にルートが分かる程度でした。東区に入り、再び、閑散とした道に入り進みました。広島に近づくにつれ交通量が多くなりまた道幅も広がってきました。最後は、猿猴橋の東詰めにて解散。全行程8.4km(昼食迂回を除く)と車が多いところでした。 |
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| 街道の見どころ案内 | |
| 興味があったのは、開田宿の中が一番で、本陣跡、熊野神社、千葉家住宅などは規模もさることながら歴史の重みも実感できすばらしいものでした。府中は、街道上にはあまりありませんでしたが、脱線すると多くのものがあるようです。最後に、愛宕神社を見ましたが、往時は広島一歩手前で、旅籠などで栄えていたようです。 |
| 海田市本陣跡(安芸郡海田町上町) 本来は、藩主の公用宿泊所(御茶屋)であったが、宿駅の整備・拡充に伴い本陣の役割を果たすようになった。宿場町としては、元禄12年(1699年)に本陣、高札場、旅籠、職人の仕事場など一通りの体制が整った。「広島藩覚書帳」によれば、広島藩内には、御茶屋は、9箇所(可部、吉田、八木、海田、西条、本郷、吉舎、甲山、尾道)あった。 |
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| 熊野神社(安芸郡海田町) 当神社は紀州熊野大社より、勧請されている。江戸時代、海田市の繁栄のため、再建され、藩主浅野家の信仰も厚く家紋である鷹の羽の定紋を許されており、屋根などに見ることができる。 |
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| 海田恵比寿神社(安芸郡海田町中店) 海田は、市が立ち繁栄していた。恵比寿は、夷と書き、異民族の通称、海に通じることから海の守の神であった。その後、商売の神となった。海田には海と市があったため、延宝2年(1674年)に勧請されている。 |
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| 千葉家住宅(安芸郡海田町中町) 千葉家は、もともと、下野の国の出、西条に住んでいた。戦国時代、大内に属していたが、後に、毛利に属し、小早川隆景の配下で活躍している。近世になり、海田に住み、江戸時代を通じ、海田市で年寄、組頭などの役職を勤め、天下送り、宿送り役をおこなっている。(天下送りとは、幕府の公用文書や荷物などを経送する役のこと)屋敷は、江戸中期の建築様式を今に伝え、玄関は入母屋造り、座敷は、数奇屋風書院つくりである。 |
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| 海田市宿の街並み(安芸郡海田町) 中世以降の山陽道は、畑賀から日浦山の北側を抜けて府中に出ていた。江戸時代になり、西国街道が定められ、宿場町になって、発展していった。港の機能もあったようだ。 街並みには、うだつの上がった商家や蔵の名前が残る。海田は市があり、繁栄していた。上市、中市、下市と広がりがあり、かなり繁栄していたことがうかがわれる。 |
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| 梵鐘(安芸郡海田町稲荷町) この梵鐘は、銘文によると享保年中(1720年ころ)に海田の嶋屋浄祐、奥田屋善六、金谷源兵衛、が寄進している。鋳物師金谷が一里塚付近に住み芸州鋳物師筆頭総代で名工といわれている。 |
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才蔵寺(広島市東区尾長東) 才蔵寺は関が原の合戦で福島正則の武将として活躍した可児才蔵(岐阜出身)を祭っている。 また、正則が徳川家に改易とされたとき、戦いに備え食料を集めたという故事のみそ地蔵がある。この地蔵の顔にみそを乗せて祈願をすると希望校に合格するといわれ受験生に人気の場所である。当地域では菅原道真より人気である。 |
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三本松(広島市東区尾長西) 街道沿いに、変化を楽しむため、一里塚とともに、松を植えていった。この地域では、三本の松が残り、バス停の名前として残っている。今残っている松は、いわれにちなみ再度植えている。 |
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愛宕神社(広島市東区愛宕町) 愛宕神社は古くからあるが、街道沿いでもあることから、門前町として街並みが形成された。市場が立ち、広島城下のすぐ手前でもあったことから旅籠も多くあった。 (よその国の人は城下に泊めてもらえなかった) |
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府中国府庁(安芸郡府中町) 多家神社(安芸郡府中町宮の内) 0.散策会の記録 |