広島市安芸区瀬野町から海田町まで

2002.9.15 山根 政則 制作
(歩かれる方は上記地図[011senoakitaitimap.gif]をファイルコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付け&印刷をして、ご利用ください) 


●街道見どころ案内

JR山陽本線瀬野駅から海田町まで  10km
JR山陽本線瀬野駅
出発はJR瀬野駅から始めよう。JR海田市駅からでもよいが、瀬野駅から出発すれば海田町に向かって緩い下り坂だから具合がよい。
広島駅から山陽本線上りに乗り20分ほどで瀬野駅に着く。
「右四日市 左志和]道標
瀬野駅を出て旧道を東に200m行くと、東から来て広島に至る西国街道と北に山越えをして志和村に至る往還との分岐がある。 ここにこの道標が設置されている。尚四日市とは今の西条町の古称。
この古来からの分岐道標以外に最近ライオンズクラブが設置した「旧山陽道落合の一里塚跡」なる道標も並んで設置されている。(位置がずれている)
これら道標は本来は橋を渡って八本松寄りの位置にあったものだが、道路改修時に位置がずれたこの位置に建てられている。
スカイレール・みどり坂線
瀬野駅を通過し西進すると、右手JR瀬野駅裏手の山に向かって気になる構造物が見えてくる。これは瀬野高地に建設された住宅団地専用のモノレイルである。総人口1万人を見込んで1998年8月に竣工し営業を開始した。
 リニヤモータ利用懸垂式モノレールという凝った方式を使用し高低差160mを克服し団地用に利用するという画期的なアイデアが評価され「1999年ローレル賞」という鉄道関係の表彰を受けた。
    スカイレールがローレル賞を(知りたい人はクリックを)
瀬野駅構内には「瀬野機関区跡碑」も設置されている。
祇園神社と大ケヤキ
西国街道はまもなくJRのガードを潜り、国道を離れて旧街道らしい細くてカーブした道に入ってゆく。このあたりは瀬野地区から西へ続く中野地区の東端となる。
この地区には各集落ごとの神社があり祇園神社もこの集落の氏神である。古老の話によると、この神社は昔はこの地点より500〜600m下流にあったが100年近く前水害で流失したのでこの地点に再建されたという。
切幡神社と天然記念物 (きりはたじんじゃ)
線路に沿ってじゃっかん緩い上り坂になる。 徐々に高度が高くなるにつれ川と線路を隔てた南面の対岸がよく見渡せるようになってくる。住宅地の中に大樹に囲まれた社と鳥居が目に付くがこれが阿曽沼氏が再興した古社切幡神社である。

 写真に写っている左手の大樹は大ケヤキ。樹高31m以上。 幹廻り約5m。社殿の後ろに集まってこんもり生えている樹木はシイの林。平均幹囲1〜1.5m。いずれも広島市の天然記念物に指定され保護されている。
旧山陽道鳥上の一里塚
街の入口北側に「旧山陽道鳥上の一里塚」なる道標がある。

参考までに広島城からここまでの一里塚による里数を計算すると
広島市中区元安橋東詰・・0里
広島市東区矢賀・・・・・・1里
広島県安芸郡海田町・・2里
広島市安芸区中野・・・・3里
 〃      瀬野・・・・4里
となる
         
矢口神社
やがて道は中野地区の中心、いまのJR中野駅付近に近づく。
この集落入口の高台に矢口神社は所在する。
この神社は鳥籠城主阿曽沼氏が南北朝以降に下野入部しその祭神を祭ったもの。

北側背後の丘陵のよく見渡せる地点に鳥籠城(とこのじょう)が建造された。今は旧跡のみ。

神社入口は表示が無く判りにくいが右写真のように駐車場角の坂をゆっくり登ってゆけばすぐ。
専念寺と鉄道遭難碑
道中右手に江戸時代の創建起と言われる専念寺がある。 真宗で開基280年になる。見学当日寺主より講話があり、せっかくの由緒ある寺であるが100年前に本堂が全焼し詳しい寺の資料が失われてしまって残念」と悲痛なお話を伺った。
大正15年に畑賀村が大水害に遭い、優等列車が転覆。その列車には内外の名士が乗車しており多くの人名を失った。その追悼碑が鐘の形で境内に祭られている。
中野駅前に在る旧家のたたずまい。左は医院。右の家の倉には家紋らしきが画かれている。
  ・
中野の出迎えの松
江戸時代の西国街道に植えられた街道松の名残り。広島市近辺はめっきり減ってしまって、こちらは纏まって残っているので広島市指定史跡となっている貴重な松である。
「出迎え松」の名は、当時参勤交代の責を終えた安芸国の藩主を、家来や村の有志達がこの松のあたりまで迎えに来たという言い伝えに由来している。 ・・広島城下から東に4里弱=15kmほどの位置になる。
春日神社
神社は昭和21年の大洪水で流され資料も流失してしまった。その後神社は西向きの旧位置から現在の安全な位置に建て替えられた。

胡神社と荒神社
(えびす・こうじんじゃ)
左と右の写真を見ていただきたい。
左(新町所在)はほこらが向き合っている。 右(成本所在)はアララ、ほこらが背中合わせ。みものです。
新町は海田の駅北地区。旧道の北あたり。成本は街道沿い東海田郵便局前付近。
大師寺(たいしじ)
海田駅北の山手に所在。
「海田のお大師さん」として人気がある真言宗のお寺。日浦山登山道の入口に建っている。
大師堂の裏手からミニ石仏めぐりができる。
千葉家住宅
千葉氏はもともと毛利氏の家臣であったが、毛利氏が防府に移封になったとき海田に土着した旧家。 宿駅の要職である天下送り(公用文書や荷物を送る)や宿送り(脇本陣の役割)を勤めていた。広い間口と立派な門構え、数寄屋風に造られた座敷棟や泉庭など、みどころがたくさん。
(県重要文化財・県名勝)
明顕寺(みょうけんじ)
開基の縁起ははっきりしない。文禄年間1592〜96年ころと言われ、もとは真言宗であったがだい江戸時代に浄土真宗になった。
海田の鋳物師、植木源兵衛が作った梵鐘が有名。享保の時代から現在まで、大晦日には厳かな鐘の音が響く。
海田市駅(かいたいちえき
やっと着いたJR海田市駅。(^_^) 広島から発車した電車はここで山陽本線と呉線に分かれる。
歴史的にはこの地区は海田市村と奥海田村の2村があったが、昭和31年に合併し海田町になった。 JRの駅名は古くから海田市である。


佐々木センセの一口噺
中野から畑賀にかけてたくさんの神社がありますが、なぜ今も残っている?
これは中野、畑賀にまたがる蓮草寺山にヒントが眠っています。
大同元年(806年)に空海により創建され、室町時代に大内氏によって焼失しました。
当地の阿曽沼氏は寺領の安堵を行い、両村に多数の坊がありました。坊には鎮守社が建てられ、付近の村人の信仰が芽生えました。
やがて広島藩の下でほとんどの寺は浄土、真宗に改宗され、小堂や小祠はことごとく消えてしまいました。しかしこの地区は神仏習合の精神を貫きました。
明治に入り神社の合祀が一般化しましたが、この地区はそれに背を向けました。いまだに中世の名残をとどめ、矢口神社、切幡神社を先頭に生き続けています。つまり旧郷には一社・一寺があたりまえで、今も祭祀がたいせつに行われているのです。