東広島市八本松町から広島市安芸区瀬野町 2002.10.29 中川 正 制作

 

 JR八本松駅から瀬野駅までは約8.5kmあります。 この間を歩かれる場合は、八本松側からの方が大山峠への登りが楽です。また、瀬野川沿いのだらだら坂も下りになります。
 このページも八本松から瀬野に向けての街道紹介としました。

                                     

  
  街道みどころ案内
 
 八本松駅北

 9月29日西国街道散策会への参加者は75名を数えた。
幸い天気は快晴。八本松駅の北側から西に向かって出発。大山峠越えに全員意気軒昂 !

 JR八本松駅から西の西国街道は駅構内から線路敷きの一部を通っていた。駅から約500m西で国道二号線を横断し、左側の道に入る。
 長尾一里塚跡

 国道二号線と大山峠に向かう交差点の付近に一里塚があったと云われる。広島札場より六里、尾道から十三里の一里塚である。
 
左右の塚松が当時の飯田村と宗吉村とに分かれて植えられており、飯田村側が男松、宗吉村側が女松で、それぞれ一本の幹から四本に枝分かれして四方に枝を張っていた。街道を中にして男松の枝がことごとく女松の枝の上にもたれかかり、陰陽和合の形として人々の評判になったと云う。

 現在藤三スーパーの駐車場の中に写真の一里塚跡の石碑が立っている。

             

 
大山峠入口にかかる
 

 大山峠は曾場ガ城のすぐ北を、賀茂郡から安芸郡へ越す峠道で、古代、中世から近世、近代初めまで長く利用されてきた峠道であり、西国街道の中でも難所の一つに数えられていた。
 
 電化するまでの鉄道も「なんだ坂、こんな坂」と前後にデゴイチが付けられ、喘ぎながら登った坂である。
 どちら側から登ってもきつい山道であるが、それでも八本松側からの登りの方が少し楽で、道も広く整備されている部分も多いような気がする。

   大山峠山中

  2,3年前までは倒木が横たわり、流水が土砂を押し流し、胸まで伸びた草や茨に覆われた歩きづらい荒れた道であったが、地元の方々の整備のおかげで、これでも歩き易い道になった。時には小鳥の囀りにも耳を傾ける余裕も持てるほどである。

 
 大山峠の一帯は、かっては広島でも有数なマツタケの産地であったが、現在ではほとんど採れなくなり、入山禁止の立て札も何年か前のものが、汚れたまま残っている。
   大山峠頂上
 
大山峠の頂上は少し空き地が広がっている。
 大名が休憩する憩亭が作られたり、駕籠置き場のスペースが取られていたようだ。また、憩亭の付近には、茶店が出され、菓子、煎り豆、わらじなども売られていたらしい。
 なお、大名が休憩する時には、宗吉村の農民が便所を担いで上がって行って、大名の用をたさせる習わしであったと伝えられている。


   大山峠の頂上に標識板をとりつけました     2002.9.29
 当日の参加者で草を抜き、穴を掘って標識を立てました。部材は厚さ4cmもある松の板です。焼きも入り大山峠の遠景が掘り込まれています。
 取り付け完了後、全員で街道の安全を祈願しました。
標識表 標識裏



 大山清水

 大山峠頂上から西へ20m下ると「大山清水」の湧き出し口がある。今でもわずかに水は出ているが、飲むのはあまりおすすめできない。
 横に「瀬野川支流大元谷川源流」と書かれた木柱が立っている。
  大山刀鍛冶の墓
 さらに西に約300m下ると右側に「大山鍛冶之墓」の石碑が建つ。傍らに「伝大山刀鍛冶の墓」の説明版があり、ここに大山刀鍛冶の屋敷があったことを伝える。右側約30mの小高い所に崩れかけて幾度か修復された五輪塔がある。筑前博多の刀工の流れを汲む大山刀鍛冶の初代守安(建武年間)の墓とも伝えられるが真偽の程は定かでない。なお、二代目以降は山を下りて下大山部落に定着した。
 かっては、この場所にも湧き水があり「関の清水」と呼ばれていた。
 賀茂安芸郡境

 賀茂郡と安芸郡の境は、峠の頂上からはかなり西によっていて、地図上でみると約700mは離れているようだ。また、郡境の線も複雑に折れ曲がっている。(ページの始めの地図を参照)
山中に八本松町を飛び越えて西条町寺家の所有林が飛び地であるなど、昔、山争いの絶えなかった所とも云われていたことも、何らかの影響があったのかも知れない。
 代官おろしの碑

 峠を下り、人里近くまで来ると川の辺に「旧山陽道代官おろし跡」の碑が建つ。ここは西方からの登り口で、険しい峠道をひかえて、代官様でもどなたでもここからは駕籠を降りて歩いていただく所であった。
 さらさらと流れる渓流の水は一口掬って飲んでみたくなるが、バイ菌は大丈夫だろうか。
 平成2年にこの水を分析した記録があるが「名水中の名水で、さわやかですっきりした味は、お茶やコーヒーにも最適。厚生省のおいしい水の要件をpH、硬度、有機物、鉄分、塩素イオン等ですべてクリァーしている」と書かれている。わずかながら大腸菌も検出されたらしい。({名水紀行」 佐々木健 著 春陽堂書店発行より) 

 瀬野馬子歌発祥の地
 
 瀬野馬子歌保存会が立てた看板がある。 馬の背に振り分け荷をつけ、険しい大山峠を越えたのであろう。米なら一石か一石五斗くらい負わせたという。馬はまだ「きんつき」(去勢をしていない馬)で、よく跳ね、扱いがむつかしかったと云う。


 山陽本線のガードをくぐって国道二号線に出ると「清山」のバス停があります。疲れた方はここから芸陽バスで広島方面、西条方面に帰るという方法もあります。ただし、回数が少ないので事前に時刻のチェックが必要です。


 万葉歌碑

 大山峠から国道二号線に出て少し歩き、左の小道を南に下ると再び大きくカーブする国道二号線と出会う。左の小高い一角に万葉の歌碑が建っている。

  まきのはの しなふせのやま しぬばずて
          われこえゆけば このはちりけむ
            (万葉集巻三 291勢能山歌 小田事作)

 「勢能山」の所在にはいろいろと議論のあるようで、和歌山県伊都郡伊都町背の山とする説もある。

 大山鍛冶の里
 
  大山鍛冶の二代目以降は大山峠の屋敷から下大山に居を構えたと云われる。
 街道右側に一群の墓石があり、「先祖 大山鍛冶市左衛門之碑」と刻まれた石碑が建っている。(写真右)
 東京国立博物館に展示されている、広島県重要文化財に指定されている宗重の名刀(天正年間1573〜92)も、この地で鍛造されたと伝えられる。
 白壁の旧家
 
 山陽本線、国道二号線と平行して下って来た西国街道は、踏み切りを渡り、国道二号線に出る手前で白壁の美しい旧家の前に出る。国道の傍に「土方大作先生碑」の建つ土方氏邸宅である。かっては村で唯一のお医者であったと聞いた。国道の喧騒を一歩離れ、白壁と土蔵の並ぶ小さな街道に、いにしえの風情が感じられて嬉しい。
 国道に出てすぐ右には、治安二年(1022)建立されたという龍善寺がある。
 広島藩油御用所跡

 国道を横切って南側の街道に入る手前で、瀬野川の川岸を覗いてみよう。ここには広島藩の油御用所があった。今はきれいに積まれた石垣の下に水路が残る。
 最初は、個人が人力により、石臼を引いて油絞りを始めたが、1790年頃から瀬野川の水を利用して水力による搾油が始まった。水路の長さは200m近くあったと云う。寛政10年(1799)に広島藩油御用所に指定された。馬で油を運び、戻り便で菜種などの原料を持ち帰った。海田からは船便で大坂方面にも積み出しがされ、この地は大いに繁栄したと云われる。
 間宿 一貫田の宿

 一貫田は古くは「出見瀬」と呼ばれ、海田と西条四日市の間の間宿(あいのしゅく)として栄えた。大名の小休所が置かれ、茶店が並んでいた。
 一貫田のバス停を南に下ると熊野跡に通じる道で、西国街道との交差点の西南角に大正時代に建てられた道標がある。(写真右)
 辰の口踏み切り

 一貫田の宿を過ぎて、山陽本線の北側を通っていた西国街道は、瀬野小学校の前の辰の口第一踏切を渡り国道に出る。さすが小学生の通学路になっているせいか、JRにしては珍しい漫画チックな注意板が出迎えてくれる。
 本来の西国街道はこの踏み切りを渡らないで、なお西にそのまま真直ぐ行ったらしいが、鉄道建設の時山裾いっぱいまで鉄道が敷設され、街道は壊されてしまった。


 落合の一里塚跡


 国道二号線と瀬野川の間を通る西国街道は旧国道であり、両側に民家が建ち並んでいるが、商店も殆ど無く、静かな家並みが続いている。
 国道二号線を跨いで志和方面に行く県道への取り付け道路の下に「右ハ国道 左ハ縣道」の道標が建っている。明治廿四年建立の文字が見えるから、山陽本線の前身、山陽鉄道が敷設される前からの道標である。(写真右)
 コンクリートで固められた榎山川の西岸に「旧山陽道落合の一里塚跡」の碑が建つ。「中国行程記」では榎山川の東方に一里山を描いているが、氾濫などにより川の流れも変わり、道も付け替えられていったのであろう。      

 落合の一里塚跡からそのまま西に行くと約200mでJR瀬野駅に到着します。 JR八本松駅からここまで約9km弱の行程でした。少し厳しい大山峠越えですが、ぜひ一度チャレンジしてみてはいかがでしようか。