本郷町から竹原市新庄町まで

2004.9.16 地図・文章作成:佐々木卓也
写真提供:小泉彰


佐々木センセの一口話:街道地域の成り立ち

・古代は安芸国東部の湿田地域を基盤に開発され、『仁徳紀』には伊奈佐伯部を安芸渟田 に移配させ、「渟田佐伯部」の祖となりました。「佐伯部」は本来蝦夷と言われる俘囚で、 瀬戸内海に沿う播磨・安芸・阿波・讃岐・伊予の国に移配されました。安芸国は東翼の 渟田=沼田(ぬた)と西翼の佐伯(さえき)と、有力氏族の佐伯氏の影響を受け続けました。
・ 古代沼田郡には『倭名類聚抄』に載る、今有・沼田・舩木・安直・真良・梨葉・津宇の 「沼田七郷」が所在しました。古代山陽道=大宰府官道は郡内を東西に貫け、大宝令の 時代から1,300年もの歴史を伝えつつ、中世から近世へもその経路は踏襲されています。
 沼田川に沿う沃野を基に古墳文化が開花し、古代からの条里遺構がよく発達しています。
・ 平安初期に承平・天慶の乱で、藤原純友を撃った功で、沼田七郷を与えられた藤原倫実は沼田氏の祖となりました。平家側に立ったために滅亡し、蓮華王院領の「沼田荘」は平家没官領となり、土肥(後の小早川)氏が地頭職に任じられました。鎌倉初期から開発され、沼田本庄を基に沼田新庄や津宇竹原庄、生口島・瀬戸田港もその版図としました。
・ 古代からの山陽道には真良・梨葉・津宇に駅家が置かれ、舩木郷は『推古紀』に伝える古代造船発祥地となり、沼田川流域は水陸の結節点となりました。小早川氏はこの大道を伝って、沼田本庄と津宇竹原庄を結束しました。毛利氏はこの山陽道を「西国街道」として位置付け、福島氏は本郷宿の御茶屋(本陣)を設置し浅野氏以降に整備されました。


横大道にある道標(明治32年4月銘)

・ 竹原市新庄町の横大道は、賀茂川の支流葛子川を横切る大道で、古代山陽道から近世西国街道を意味し、津宇竹原庄の新庄方にあたる。
・ 大昔には薬師如来を祭った「横大堂」と称する大きな伽藍があり、字名寺が残っている。
・ 当地は南の竹原下市地区と、北の入野地区とを結ぶ往来が交差し、西国街道は明治初年に国道となり、東は大坂へ西は廣島へと至る。
・北部山麓には横大道古墳群が所在する。
   
                (写真:中川 正)

横大道の地蔵さん(寛政7年銘)

・ 花崗岩製の地蔵で、台座には法界と彫りこまれ三界萬霊を意味し、江戸中期に建立された。
・ 俗に「雨乞い地蔵」とも呼ばれ、周囲には一面に棚田が造られ、江戸末期の石垣が見られる。
・ 建立は当村正五郎で、庄屋の木原屋=山内氏に関係するものと思われる。
・ 江戸末期から明治中期まで、村には50軒もの家があり、茶屋や宿屋があり人力車もあった。

瓦坂峠(関屋坂・河原坂峠・十三峠・チョンマゲ峠)

・ 『芸藩通志』の新庄村図に「関屋坂」と書かれ、 街道の関所跡があった。
・ 急坂のために雨に洗われた際に、峠道が河原となるため「河原坂峠」とも呼ばれた。
・ 広島城下から13番目の峠で「十三峠」と称す。
・ 地形的に「チョンマゲ峠」とも呼ばれ、石畳が敷かれ尾根まで通り易い。
・ 明治年間に新庄村横大道の某氏が、当地の赤土で約10年間瓦を焼いた跡があり、「瓦坂峠」と呼ばれ、明治20年頃まで峠の茶屋があった。
・ 峠の西斜面には「御迎場」駕籠場跡や、大正期に子供の泳いだという「戸石バ池」などがある。

日名内の風景(胡城跡・日名内一里塚跡)

・ 「日名内」とは日の当る地のヒナと、川辺の地のアイヌ語のナイの合成地名である。
・ 伊予国河野氏の武将で、日名内氏の祖先である   林小太郎道清の子辰巳之助は、牛鬼ヶ原で沼田 の土豪の土肥弥次郎を打ち破った。
・ 地名を辰巳ヶ原と改めて、山家村(現日名内村) の卯月山に永仁6年に築城した。
・ 恵比須顔で建てたので「胡城」となり、その後 竹原小早川家に随臣し毛利家に従い萩に移る。
・ 新設された「けいりん場外車券売場」付近に、西国街道の日名内の一里塚跡があった。

尾原川に沿う山辺の道(やねこい山道)

・ 日名内から国道2号線を左に見て、旧道の山道となり木陰の遊歩道が続く。
・ 私有地のためか、倒木や伐採された樹木が道路 を塞ぎ、大量のゴミもあり通行困難である。
・ ジャングル状の山道を過ぎると、国道12号線と合流する。

追分のバス停付近の道(心地よい木陰)

・ 落合バス停は西国街道から、南の竹原市小梨に 分岐する地点にある。
・ 花むら温泉などホテル施設を抜けて、山麓部の山道が続く。
・ ここからは南方神社(宗長神社)まで木陰の道となり、往時の雰囲気が楽しめる。

南方神社(通称:宗長神社)

・ 梨葉郷は鎌倉末期に北方村と南方村に分かれ、北方村は上下に分かれ、下北方村から善入寺村が分離し、「梨葉四郷」と呼ばれる。
・ 南方村の宗長に鎮座する当社は、御祭神は八幡大菩薩で、周辺の古祠を合祀するため、現在は南方神社となっている。
・ 本来は二本松古墳の上にあり、石階段を登ると境内に至るが、二本松古墳の石棺が残る。

二本松古墳の石棺(豪族の奥都城)

・ 小原川に沿う丘陵部には、横穴式石室を持った古墳が点在し、二本松に因み古墳名となった。
・ 石材は流紋岩質凝灰岩で、遠く兵庫県高砂市産 の龍山石で、沼田川流域で6個の発見がある。
・ 石棺本体は蓋石と側石と底石の5枚で、蓋石の形状が家型で2個ずつの縄掛突起がある。
・ なお石棺は昭和58年12月17日に、神社境内に復元し安置された。
・貞丸2号古墳の石棺の一部も移設されている。

貞丸1号古墳・貞丸2号古墳

・ 南に開口した横穴式石室を持つ円墳で、双方の築造年代は6世紀末で県指定史跡である。
・ 1号墳は羨道部が破壊され、入口に柱状の仕切が施され、玄室内に刳抜式家型石棺を納める。
・ 2号墳は40m上方の丘陵斜面にあり、石室前部 は破壊され、家型石棺は現在南方神社にある。
・ この家型石棺は分解され、神社拝殿前の踏石や手水鉢に利用され、入口の大日堂の記念碑台座にも利用されている。

御年代古墳(眠っているのは夫婦?)

・ 明治28年の道路工事により発見され、前記の貞丸古墳とほぼ同じ時期に比定される。
・ 羨道部は破壊され、南に開口する玄室が前後に間仕切石で2つに分れ、花崗岩製の刳抜式家型石棺を納める。国指定史跡の円墳である。
・ 出土遺物には、金環・金銅製馬具・須恵器など多数で、畿内型古墳の特徴を表している。

南方村役場跡(珍しいアンティーク建物)

・ 沼田郡梨葉郷は鎌倉末期に二分され、北方分と南方分となり、村名は明治に至るまで続いた。
・ 明治22年に豊田郡南方村が発足し、西国街道に沿う当地に村役場が置かれた。
・ 昭和29年の本郷町に合併されるまで、当館は地域の中心施設となっていたが、現在は地域のコミュニティーセンターとなっている。
藤棚の茶屋跡(参勤交代の憩の場)
・ 役場跡の北側に、かつて藤棚の茶屋が置かれ、西国街道の名茶屋として知られた。
・ 旧記に「尾原藤の棚、殿様小休止、他国諸大名
・ 臨時御休被遊候」と書かれている。
・ 現在は「中国自然歩道」に沿う休憩所となる。

二羽橋たもとの一里塚跡

・ 梨和川と尾原川の合流地点には、「二羽橋」が架けられている。橋名は南北二つの梨羽(葉)の郷を併せて命名された。
・ この橋の西詰にかつて一里塚があったが、今は伝承のみで「中国行程記」を見るしかない。
梨和川土手の道標
・ 東の川土手には、西国街道と三次道への分岐を示す道標があるが、ガードレールで見ずらい。
・ 九州道=西国街道から三次支藩に分れ、往還は 南部の三次藩領の忠海に通じる。
・ 当地から入野・白市・乃美と抜け、車馬が往来する重要往還であった。

梅木平古墳(沼田川を治めた豪族の冥界)

・ 県内最大規模を誇る横穴式石室を持つ円墳で、6世紀末から7世紀初頭の築造といわれる。
・ 享保3年の「上北方村差出帖」に、「梅慶庵塚」 とあり、「芸藩通志」に「梅慶庵塚穴」と共に 「宮仕川塚穴」を載せ、現在の1号墳・2号墳 となっており、現在県指定史跡となっている。
・ 1号墳の石室は東に開口し、間仕切石で羨道と玄室に分けられ、巨石で見事に築かれている。
・ 沼田佐伯部の系統を持ち、有力氏族の墳墓とも思われるが、石棺は盗掘されたか現存しない。
・ 墳丘頂上には、平安時代の造営と伝えるニ体の仏像を安置する小堂がある。

横見廃寺跡(芸備の仏教文化の発祥地)

・ 大字下北方の宮地川にあり、西の宮地川神社と東の高木山城跡に挟まれた水田内に位置する。
・ 地元の伝承からかつて「ヨコミ寺」と呼ばれた古社があり、古くから瓦片が出土していた。
・ 昭和46年から3度発掘調査され、国指定史跡となり、白鳳期から奈良時代の寺院跡である。
・ 発掘により、建物の基壇・回廊跡・築地跡などが確認されたが、伽藍配置は不明である。
・ 出土品には忍冬蓮華文軒丸瓦を始めて、多数の 瓦の発掘状況は、有力氏族の存在を伝える。

茅ノ市:心光寺の石垣

・ 毛利氏の支配当時は、「茅ノ市」に西国街道の宿駅が置かれたが、福島時代に本郷に移った。
・ 茅ノ市の入口に道標が残され、南方面へは忠海に至る三次往来が分岐する。
・ 浄土宗心光寺は「行程記」に「往還端石垣高さ弐間半あり」とあり、古刹の風貌を止める。
・ 石垣は江戸初期の「穴太積み」で、花崗岩製の築地法面と白壁に往時を偲ばせる。
・ 背後の丘阜に「高木城跡」があり、「平家物語」に載る「沼田次郎」の居城と伝えられている。

甑天満宮・甑天神霊泉

・ 茅ノ市の北丘阜の字岸ヶ岡にあり、祭神は天神菅原道真で諸神を祭祀する。
・ 伝承によると、延喜元年に菅原道真が大宰府に赴く途次、飯を蒸す甑を残したという。その後村人がそれを祭り、甑天満宮と称した。
・ その時に菅公の自ら掘り上げた井戸が、神社の東麓にあり、街道の旅人の咽喉を潤わせた。
・ 今川了俊の「道ゆきぶり」に、当地での故事は詳しく語られているので、参照されたし。
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沼田川の渡し(脚と橋と舟で渡れる大河)

・ 「中国行程記」に「この川大渡という。川広く70間ほど、砂川陸渡り。冬は一つ橋あり、舟もあり満水には渡しとまる大川なり」とある。
・ 旧渡し=現県道の橋から北を見ると、左側には新高山城跡が、右側には高山城跡が聳える。
・ 土肥(小早川)茂平が築城した高山城は、沼田氏の所領を版図に、沼田小早川家の礎となった。
・ 天文19年には小早川19代として、毛利家より養子縁組を交わした隆景が修復し、永禄2年に正式に新高山城に移った。
・ 両高山城は国指定史跡で、登山道も整備されており、麓には古社寺が今も残っている。



沼田氏関連の史跡

楽音寺(南方楽音寺山)

・ 真言宗御室派に属し、歓喜山法持院楽音寺と称し、本尊は薬師如来である。
・ 弘安11年の「関東下知状案」(楽音寺文書)に、天慶年間(平安初期)に沼田庄本下司の沼田氏により建立されたとあり、元は天台宗であったが室町時代に真言宗に改宗した。
・「楽音寺縁起絵巻」によると、藤原純友を討った当地の藤原倫実は、その功が認められ「沼田七郷」を与えられ、護持仏を安置したのが出自となった。
・ 建永年間(鎌倉初期)に小早川氏が沼田庄の地頭として補任し、その後氏寺として再興されたが、後に米山寺を菩提寺としたため、梨子羽郷地頭職の氏寺となった。
・ 寺宝も数多く伝存し、上記絵巻や「楽音寺文書」や「安芸神名帳」は特に有名である。

弁海神社(梨子羽郷弁海名)

・ 梨子羽郷の内南方にあり、尾原川の支流・三次川沿いの丘阜に位置し、古社殿が残る。
・ 「弁海名内年貢注文」(東禅寺文書)に、船木村と尾原村が見える。船木村は現在の字の小船木で三次川流域に、尾原村は尾原川沿いの地区をいう。
・ 今川了俊の「道ゆきぶり」に、「此南によろづの神々いはひ奉る中に、おとこ山もいますと申す」とある。小早川氏一族により、梨子羽郷の守護神として祭祀された。

東禅寺(南方蟇沼観音寺谷)

・ 三次川に沿う三次往還の西の観音寺谷にあり、蟇沼山補陀落院東禅寺と称し、真言宗御室派に属す。元は楽音寺の末寺で、行基作の秘仏の十一面観音菩薩が本尊となる。
・ 当寺は沼田庄領家側との関係で、橘氏や源氏の宗教的基点となり、後に地頭小早川家との接点ともなった。さらに室町時代には竹原小早川家が関係した。



ちょっとひとこと

☆古代から現代まで同じルートを通った山陽道

 古代沼田郡は一部が中世賀茂郡に編入され、近世には北部の豊田郡へと統合されました。
しかし沼田地域の山陽道は古代から近世に至るまでに、前回及び今回の散策経路では路線が一切変わらないままで、西国街道に受継がれ1300年余り続いたのです。
 正に歴史の道の近世西国街道は、古代山陽道の時代からの地域文化を抱き、私たち旅人に全ての文化を見せているのです。この歴史街道に近代の国道2号線や現代の山陽新幹線や山陽自動車道も並行して通り、広島空港も近接し宛ら交通史が楽しめます。