備後の西国街道を行く

三原城下〜糸崎

2004.12.17
2004/10/17実施 製作担当:塩形

 三原は、戦国時代小早川隆景が活躍した、城下町を築いたところで知られる地域です。戦国時代、本郷を拠点とした小早川隆景は、毛利元就の三男で、毛利氏とともに拠点を三原に拠点を置き海へと出て行った。三原城下を築くときおもな神社仏閣は本郷から、移ってきたものが多い。のちに、江戸時代になって、浅野家の支城になっていくが、1国1城の時代、浅野藩は、この地の三原城を重要性にかんがみ、取り壊しになることなく認められた城でした。


三原城下〜糸崎 案内図

枠内の中心市街の詳細図へ  三原城下中心部の詳細図へ(下段)   

三原城下〜糸崎 ルートへのアクセス

 午前9時30分、JR三原駅に集合、ここから歩き出しました。天気もよく、散策には絶好の日、佐々木先生の弁舌も今日は絶好調でした。それから、今日は元気な子供たちが多くみえてみんなの笑顔を作ってくれました。市内の、神社仏閣を巡り、三原城址で昼食距離が短かったこともあり、予定より早くゴールに着きました。この続きは、糸崎から尾道まで、距離が長く歩き応えがあります。12月頃気候の良い頃に歩きます。大勢の参加をお待ちしています。

街道の見どころ案内

 三原駅を出発。一路、西へ、法常寺、三原八幡宮へと歩く。法常寺は竹原から本郷、三原へと移ってくる。三原八幡宮では、知恵の輪をくぐる。無限大に3回くぐるとよいことがある。香積寺は本郷に有った物が移ってきた。この土塀は、単なる寺の塀ではなく戦略上の意味から造られている。本陣横の、和久原川は東の外堀を意味する。また、この川の堤防は、城下側が一段高くなっている。水害から守る城主の知恵であった。西国街道は、地形上城内の一部を通るが、本陣は、東町にはいったところにあった。東町は、昔の面影が残るが、拡幅工事で一部イメージが変わっている。ちょっと残念である。
おおむね、4時間であった。

「小早川 隆景築く 三原城 瀬戸に突き出す 不思議浮き城 」(読み人知らず)


三原東町の本陣(三原市東町)
 湧(和久)原川のてまえに、旧本陣があった。善教寺の西隣にあった酒造りを生業とする山科や(現富田酒店)付近を本陣とした。わずかばかりの白壁と、床下に人が忍び込めないように造られた密室が、往時の面影を残している。

三原城跡(三原市本町)
 三原に城を構えたのは、小早川隆景、三原の町を分断して築造された。その後、福島正則が、関が原後に広島藩に入ってきた。このときこの城を拡張し、東の備えとした。福島が改易になった後、広島藩は浅野氏になるが、幕府の一国一城令が発令されるが、幕府は広島藩の支城として認められた。今の城跡は、福島正則時代の物である。この後、城北の通りは、城内の道となり、湧原(和久原)川は城の堀として使われた。下流は、付替えられて、不自然に曲がっている。湧原川の東が東町、城の西が西町として町割された。城のために商業活動は著しく困難であった。商売は尾道に押され気味だった。

三原市大神宮と神明祭(三原市東町)
 三原市大神宮、見た目は小さくたいしたことが無いように見える。この神社、伊勢神宮を祭っている。小早川家は伊勢神宮を信仰した家であり、三原市へは伊勢から同氏の時代から伊勢から村山大夫という御師が来ていた。小早川水軍は伊勢の大神宮とつながる水主の町、町々で、祭りが行われていた。このため、小早川は、この大神宮を庇護するとともに、その水軍の拠点とした港(今の旭町地区)の庇護をした。いまは、三原で有名なまつり、神明祭はこの神社をたたえる祭りで、小早川隆景も庇護をした。見かけによらず立派なものだ。
三原八幡宮(三原市西町)
 小早川隆景によりこの地に移された。浅野時代、この南に広がる宮沖新開築造により新田が広がってきた。ここより、眺める市街地は、西町一帯の古い家並みが続く西国街道が眼下に見え城下町の面影がしのばれる。また、三原八幡宮では、知恵の輪をくぐる。無限大に3回くぐるとよいことがある。
香積寺(三原市本町)
 香積寺は本郷に有った物が移ってきた。本尊の十一面観音菩薩を持ち運ぼうとしたが動かなかったので、同名の寺が、本郷にあるのはそれである。ここをまっすぐ降りると、左手に土塀が続くこの一帯は城下町としての戦略上の通路として設計されています。敵方が刀をぬけない片側土塀と鍵型通路、そして行き止まりの迷路が残っています。


三原東町(三原市東町)
昔からの街並みがまだ残っているが、でも近くはすでに工事中である。ここももう少しで、拡幅されなくなってしまうのだろうか。
この写真は1年前に撮影したもの。現在は左側(北側)の建物はすでになく、南側も、白い壁の家から手前は移築してしまっている。なぜ、現状のまま残せないものなのかと残念がる。(現在の写真もとったが拡幅工事がもうじき行われる無残な姿だ。)

城防衛ため東側堤防が低い湧(和久)原川(三原市東町)
 湧(和久)原川は城の東側を流れる川。外堀の役目もするここより東は、東町。ここより西は城内子の、橋のたもとは大手門があった。この川の東が、本陣跡である。この川、よく見ると堤防の高さが、東西で1mは違う。城側のほうが高いのだ。大雨のとき、洪水となると決まってあふれるのは、町屋側である。庶民の生活は大変であったようだ。川岸から川中に向けて三角形に石垣を築き出し、川の流れを弱める役と、川の方向を変えて、三原城の「東築出」の用地を確保するためのいす積み。現在6ヶ所ある。そういえば大竹の小瀬川にもあった。

三原西町(三原市西町)
西町も少しずつ拡幅されておりいずれ道自体が消えてしまいそうだ。周辺には、古きよき街並みがある。宗光寺門前の街並みや一本裏道は捨てがたい。

妙正寺(三原市本町)
 「三原志稿」の中でここからの登覧の図がでている。ここからの眺めはすばらしく、三原城跡越しに、瀬戸内海がひろがっているのがすばらしい。

宗光寺(三原市本町)
 小早川家について高坂から出てきたお寺、このあたりのお寺は移転してきたものが多い。西町に近く見てみると面白い。

香積寺(三原市本町)
 小早川家について高坂から出てきたお寺、本尊は運ばれる途中で災いがあり、もとのところに戻った。結果として、ここと、元の位置の二箇所となった。


三原城下の中心部

記録のページ

行程記

第26回 西国街道散策会TO糸崎
三原駅〜三原城下〜糸崎駅  (交流会8月号原稿) 

主催:西国街道散策会
日時:平成16年10月17日(日)9時30分〜15時
参加:41名(佐々木卓也他)と子供たち