尾道市尾道駅から三原市糸崎町まで

2005.1.30 中川 正 制作


街道みどころ案内
 糸崎から尾道までの西国街道は約10kmの行程。前半は国道2号線沿いに歩く。途中、右左に西国街道の旧道が残る所もあるが、大半は国道沿いに歩道を往くことになる。
 木原町で踏切を渡り、福地地区の旧道に入る。
 江戸時代は、吉和町の海浜や栗原川の河口付近は、山崖が海に落ち込んでいて、海岸を通ることができず、街道は福地から山越えをし、日比崎の七曲坂を廻って尾道の宿に向かっていた。

糸崎駅から東に向けて出発

 2004年12月5日、糸崎駅に集合。前日よりの雨模様の空もなんとか回復してきた。
 糸崎駅はかっては機関区が置かれ、蒸気機関車の基地であった。昭和40年に山陽本線が電化されるまでは、すべての特急や急行が停車し、石炭や水の補給が行われていた。整備の待時間の間に、ホームで食べたそばの味は今でも語り草となっている。
 現在は機関区もなく閑散としている。JR岡山支社西端で広島支社との乗務員の交代が行われる駅である。 
 鉄道を陸橋でわたる

 糸崎駅の改札口を出て、国道2号線に出ないで、すぐに左折する道がかっての西国街道である。線路沿いに東に進み国道2号線に合流する。
 国道2号線を東に進むと、約200mで青木陸橋にかかる。街道は陸橋を渡って線路の南側に出る。

 鉄道線路のあたりが昔の海岸線で、海岸沿いに西国街道は続いていたものらしい。
 
 お地蔵様の並ぶ街道

 鉄道の南側を進むと、国道のコンクリート擁壁が迫り、西国街道の面影はなくなっている。
 それでも、道端にたくさんのお地蔵さまが祀られており、いつも掃除が行き届き、いきいきとした瑞々し花がお供えされている。

 糸崎は井戸崎(いどさき)が訛ってつけられたという地名伝説もあり、今なお、街道脇に井戸が並び、きれいな真水が汲みあげられている。
 夜泣き松

 国道2号線の下をトンネルでくぐるり、国道の北側に出て右折する。
 左側の玉垣の中の祠に、松の古木の幹が祀られている。通称下り松また夜啼松ともいわれ、神功皇后の御船を繋いだ船繋ぎの松だといわれている。
 夜泣き癖のある嬰児の親が、願掛けしてこの松の枝や根をとり、それに火をつけて嬰児に見せれば夜泣き癖が止むといわれた霊木であった。
 実際に霊験があったとして、京都岩倉家、薩摩島津家からは奉謝の品が届いたと伝えられる。 
 糸碕神社に参拝
 糸碕神社

 糸碕神社は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后を祭神として天平元年(731)に鎮座されたと伝えられる。
 神功皇后が西征からの帰途、この地に船を泊められ、村長の木梨真人が奉迎し、井戸の水を献上したとされている。

 地名もバス停も糸崎の文字を使っているが、神社としての名称は石偏の糸碕が正しい。
 糸碕神社の神門
 神門は、もと三原城内にあった侍屋敷門の一つで明治8年に旧浅野家奉行の生駒氏より寄進されたものである。天正年間(1573〜92)の作と推定されている。
 御調井(みつぎい)

 御調郡の郡名は、境内にある長井の水を汲んで、神功皇后に貢いだことから起こったとされている。
 説明版には次のように記されている。

「昔、神功皇后この長井の浦に御舟lを繋がれし時、村長木梨真人この井の水を汲み献上したという。
 この井戸は、直径120cm、深さ360cm、自然石にて築造され、水は常に清く澄みさわやかで、どんな高潮の時でも塩分はない。皇船に水を献上した故事にならって、神社大祭に神饌を奉る際の用水にしている」 
 樹齢500年以上のクスノキ

 境内の西にある楠の大木は樹齢500年以上といわれている。
 胸高の根回りは約13m、樹高約30mで、枝を左右に大きく張り樹勢は今もなお盛んである。
 長井の浦 万葉歌碑

 この糸崎の地は、昔から海上交通の要衝の地で、この一帯は万葉集巻15に見える「備後国水調郡の長井の浦」とされている。
 天平8年(737)6月、阿部継麻呂を大使とする遣新羅使の一行が長井の浦に船泊まりして作った歌の中から、
     帰るさに 妹に見せむに わたつみの
     沖つ白玉 拾ひて行かな
                      (巻15 3614)
を万葉仮名で書かれた碑が、国道に向かって立てられている。
 なお、その周辺には、今川貞世の歌など、多くの碑が立てられている。
 糸碕神社を出て、更に東に向かう
 六本松一里塚跡

 糸碕神社前の小道を東に進むと、約100mで国道2号線と合流する。
 合流地点の線路脇に一里塚跡の石碑がたてられている。碑には「六本松一里塚跡」側面に「東方約50m鉄路内」とある。
 尾道から二里の一里塚である。
     
       
 たくろう火

 むかし、この長井の浦から沖を見ると、向いの佐木島のあたりにかけて夜明け頃、波間に火が燃えるのが見えたので、浦人はこれを焚朗火(たくろうび)と名付けた。
 「中国行程記」にもこの話をのせ「筑紫の不知火(しらぬい)の類ならんか」と記述している。
 国道2号線

 六本松一里塚跡から東に向かっては、国道2号線の歩道をひたすら歩く。約2kmでようやく「赤石」の部落に到着する。
 この間は、山が海岸に迫り、海岸沿いの狭い土地に国道と鉄道が平行して縦長に伸びている。
 しまなみ街道 因島大橋

 遠く、海上に目をやれば、しまなみ街道の因島大橋が見える。
 みかんの丘

 左手の山の斜面は高く耕され、陽光をいっぱい受けて、柿やみかんがたわわに実っていた。
 水遣りは苦労されているだろう。
 赤石

 三原市木原町赤石の交通標識から左に入る旧道が西国街道である。車の激しく行きかう国道と一変して、人も通らない静かな里道となっている。
 鉢ケ峯への道

 赤石の部落に入り東に進むと、左に鉄道のガードがあり、その角に鉢ケ峯への石碑が立つ。
 「鉢ケ峯 虚空蔵 一`五百b」とある。
 鉢ケ峯は標高429mの山で、その8合目にまつってある虚空蔵菩薩が知恵を授ける仏像として深く信仰されており、4月の第2日曜日の大祭には、毎年近郊から約1万人の人出で賑わうといわれている。

 鉢ケ峯にはいくつもの伝説が伝えられているが、三原市観光協会のガイドブックに記載されている話を次項に紹介しておく。
 
 鉢ケ峯の伝説

 鉢ケ峯をひらいた万慶上人は、大同の頃(806〜08)この峯で修行をした高僧で、上人が六道の閻魔王に出会い、鉢に米を貰ってから上人が遷化するまで、米が切れたことがなかった。それ故、満米上人ともいう。
 米がなくなりそうになると、鉢がひとりでに飛び出し、沖を通る船から喜捨をうけてはもどってきたといわれている。
 ある時、鉢が海へ降りていったところ、通り合わせた船頭が干鰯を投げ込んだ。すると鉢は干鰯をはね出すとともに、船の上をくるりと回った。仏の怒りに触れた船はたちまち海底に沈没したと伝えられる。霊験あらたかな鉢にちなんで、鉢ケ峯と名付けたといわれる。
 万慶上人の五輪塔の墓に、家から持参した水をかけ落ちる水を汲みうけて、体につけ、または持ち帰って飲むと頭が良くなるという御利益があるといわれている。 
 観音寺

 赤石の旧道を過ぎて、国道に合流すると、左の山腹に寺院の大きな屋根が見える。
 真言宗 観音寺である。昔は前述の鉢ケ峯虚空蔵堂の脇にあったが、その後移転を重ね、現在地に移ったといわれる。

 息を弾ませながら険しい坂道を登った代償か、境内から一面に瀬戸内の眺望が開ける。
小早川隆景、沼田小早川家相続時の悲劇

 観音寺の境内、鐘付き堂の西に石造五重塔が立っている。小早川隆景の沼田小早川家の相続に反対して殺害された、沼田小早川家の重臣田坂善慶の子頼賀の墓である。
  天文12年(1543)、大内氏の遠征に従軍していた沼田小早川家の当主正平が21歳で討死した。遺児の又鶴丸がその跡を継いだが、3歳の時眼病を患い失明していた。本家の沼田小早川家が徐々に勢力が傾くに対し、独立性を強めていた竹原小早川家は毛利家から隆景を養子に迎え勢力が盛んであった。
 隆景を本家の養子に迎え、又鶴丸の妹の満州姫(後に問田の大方と称する)と結婚させて本家を相続させ、又鶴丸は隠居をさせることになったが、重臣の田坂善慶などは強く反対した。
 天文19年(1550)隆景は沼田小早川家を相続し、翌年田坂父子は殺害されている。
 ここ観音寺には子の頼賀の墓があ。田坂善慶の墓は、三原市小坂町の稲村城址にある。
 大鯨島、小鯨島、岩子島(いわし島)
 
 境内から眼下の布刈瀬戸を眺めると、大鯨島、小鯨島と浮かび向こう岩子島が見える。岩子島は、昔は鰯島と書いたといわれる。小さな鯨と大きな鰯の取り合わせは滑稽であるが、因島大橋を背景に心安らぐ光景である。
 この鯨島近くには毎年12月から翌年1月まで鯨が寄ってくるという伝承があるが、地元の漁師の話では、近年はそのうわさは聞かないとのことである。
 鳴滝城山

 木原町の鉄道踏切を北に渡り、国道2号線に別れを告げ、福地の部落へと向かう。
 正面に鳴滝城山(標高318m)が見える。鎌倉末期から戦国時代にかけての城跡である。眼下に瀬戸内海を一望する要地で、監視を目的とした城ともいわれている。宮地氏がここに居城したが、後に木梨氏の配下に属した。応永30年(1423)頃落城した。
 鳴滝城山は2年前山火事により焼失し、現在は岩肌がむき出し、無残な姿となっている。(写真は焼失前)
 尾根づたいに行くと、西方に鳴滝山(462m)がありその頂上は公園となっている。
 福地

 西国街道は福地の部落の中を、ゆるやかに登っていくが、この街道の北側が三原市、南側が尾道市と分かれている。どちらも福地の地名がついている。
 部落の中心のバス停からは、三原駅、尾道駅行きのバスがほぼ同じ程度に出ている。


 大人峠一里塚跡

 三原市の最東端の一里塚跡である。尾道土堂の一里塚から西方へ最初の一里塚である。
 左の塚は三原側、右の塚は尾道側にあった。


 一里塚跡の所在がつかめず苦労したが、3年前、地元の方がこの石碑を立てられた。

 なお、この峠は、大人峠とも、大助峠、応助峠とも呼ばれている。
 
 明治の地籍図の地番には応助と書かれている。

      
 吉和、茶堂橋

 尾道バイパスを陸橋で越えた西国街道は吉和の集落に入り、吉和川を茶堂橋で渡る。
 吉和川河口の吉和漁師町には代々継承されてきた「吉和太鼓踊り」がある。隔年の旧暦7月18日に尾道の浄土寺へ奉納される勇壮な踊りで、吉和から尾道市街地を通り浄土寺まで踊りながら行進する。
 延元元年(1336)、都を追われた足利尊氏が九州へ走る途中、吉和村の漁民がその船方となって尊氏を送ったが、その時の足利軍の調練を手本にして始めたのがこの踊りの起源といわれている。尊氏は九州から都に上る途中、再び浄土寺に立ち寄り、漁民に褒美を与えたといわれる。
 手崎町

 吉和町からの坂を下ると、右手に山陽本線の線路が見えてくる。「芸藩通志」の絵図によると、江戸時代はこの辺りまで海岸で、その先に塩浜が作られていたようだ。
 左手の山肌には、岩を穿いて地蔵尊が祀られている。
 日比崎七曲坂への入り口

 線路にそった道をそのまま真直行けば尾道市内に続くが、西国街道は途中で左に折れて七曲坂を通って宿場町に入っていた。
 市街地の西のはずれにある栗原川の西部に巌通と呼ばれる山の端の険しい個所があり、潮が退いてもやっと岩の上を飛び渡れる位で、一般には七曲坂を越えていたという。(吉和町史)
 明治になって、巌通鼻に橋がかかり、ようやく三軒家町へ通ずる直線の道が開通した。
 ところで七曲坂への入り口は、うっかりすると見落としてしまう小路である。(テルミー美容院の西側から入る)

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日比崎小学校のグランドを廻る西国街道

 民家の間の坂道を曲がりながら、日比崎小学校目指して登ると、グランドの裏口に通じる道に出る。
 グランドの北側を回る道が、西国街道のなごりである。授業中はグランドの上の坂道を通ろう。



 
 尾道で唯一の酒造場

 安政元年(1854)創業の尾道唯一の造り酒屋。
銘柄は「寿齢」。吉田源右衛門の表札も、歴史を物語る。
 
 三軒家の狭い通りは、ぎっしりと民家がひしめいている。この通りは、尾道出身の大林監督が映画のロケ地として、数多くの作品に登場させた町である。
 尾道駅 北口

 全行程約10km。上り下りもあり多少強行軍であったが、全員元気に到着。お疲れ様でした。