東尾道駅から尾道駅まで 

2005.4.17  山根 政則 制作

(歩かれる方は上記地図[021higasionomitionomap.gif]ファイルをコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付け&印刷をし、ご利用してください) 


●街道見どころ案内
  お勧め:このコースの出発点は防地峠の上りが楽な東尾道駅側から歩き始めて防地峠の急坂を下るようにした方が楽でしょう。またこのコース選択なら到着地が尾道旧市街になり、旧跡、その他の観光というおまけがあります。

JR東尾道駅からJR尾道駅まで  6km
高須八幡神社

高須地区は昔は畳表にするイグサの産地であった。

神社の鳥居には享保2年(1717)、社前の常夜灯には寛政元年(1789) の銘がある。行程記には「この辺、昔海にて潮入干潟のところ寛文年中(1661〜)開作となる。往古往還は当所の山麓にこれあるよし。今の新道往還となり」とある。 高須は寛文4,5年の開作といわれる。

昔神社の下一帯は海水であった。
竈神社(かまどじんじゃ)

西国街道から少し北側に細道で行った高所にある。
現在の神社は江戸時代の竈神社と本戸神社が合祀されている
関の地蔵尊

崖の上に「関の地蔵」と呼ばれる地蔵堂がある。
道の曲がり角には「右ちかみち」の碑がたっている。
「高須一里塚」跡

この地域の字名は一里塚と名付けられている。行程記には「この一里山は備後尾道から一里、備中板倉より十六里」とある。道脇下に一里塚跡の石碑が建っている。

         
蓮如上人名残の地
(坊地池:ぼうじいけ)


バイパスの坂を少し上ると二つの溜池がある。手前の細長い池が新池で、奥の池が旧池である。二つの池の堤防に「南無阿弥陀仏」の名号石と左右に二つの石像(左が勢至菩薩・右観音菩薩)が建っている。この場所は蓮如上人が母を訪ねて浄土寺を訪れ、帰りにここまで送ってきた住職と名残を惜しんだ場所とされている。
防地峠(ぼうじとうげ)の芸備藩境

元和5年(1619)福島正則の改易後、広島藩は浅野氏、福山藩は水野氏が配置された。備後南部の境界は尾道の浄土寺山の稜線を北に走らせ、その線の西を広島藩、東を福山藩とし、両藩の公道は坊地峠をもって通じることとした。坊地峠の接点に両藩とも関守を置いて監視警戒を厳しくした。広島藩の番所は跡形もないが、福山藩の番所の建物は、街道北方の高台、民屋の奥に当時のものが残っている。

上の写真は番所建物
下右の碑は福山藩のもので道路の東側に立つ
下左の碑は藝州藩のもので道路の西側に立つ
  (現物は藝州藩のものが福山藩のものより若干大きく
   たぶん石高の差を意識して意地を出したのだろう)


法華題目石

くねくね曲がった峠を下りてくると峠の途中に地蔵堂がある。そばに「南無妙法蓮華経 妙法」の自然石に刻んだ題目石がある。
正念寺・亀山八幡宮・

街道を降りてくると山陽本線線路手前右側に正念寺入口の石碑がある。この寺は遊行上人にて開かれた念仏寺。境内には滾々と湧く延命水があり尾道一の名水といわれる。

寺に隣接して上ると亀山八幡宮がある(写真)。
八幡宮は平安時代創建。尾道は江戸時代から石工の町で知られており大阪城築城でも石を提供している。境内には行司軍配を巧に刻んだ石灯籠も現存している。

神社の西に隣接した浄泉寺の大屋根が覗き、大きな鬼瓦がこちらの境内に睨みをきかせている。
浄土寺

聖徳太子の創建、足利尊氏ゆかりの寺として知られる浄土寺は、国宝の本堂、多宝塔をはじめ国の重要文化財が17点も並び、文化財の宝庫と称されている。国宝の多宝塔は嘉歴三年(1358)の再建で、本堂とほぼ同時期に再建されている。高野山、石山寺とともに我が国三大多宝塔に挙げられている。

参道の脇には、姿三四郎のモデルとなった西郷四郎の像もある
「尾道一里塚」跡

現在の中央商店街が昔の西国街道で、その土堂一丁目に一里塚があった。この辺りは奉行所通りとも呼ばれていて、文化9年に描かれた尾道町の絵図には、現在の三井住友銀行、旧商工会議所の建物のあたりに「御屋敷」「御倉」と奉行所の建物が並び、その西側の現在の海側に抜ける小路あたりに小川と道路を挟んで大きな松が描かれ一里塚の位置を示している。広島から19里、備後高須から1里の位置である。
          

「中国行程記」 尾道古図

編者後記
今回の制作に当たり、解説文は会員中川さんの文書に拠るものが多く、他に佐々木代表、塩形さん、ホームページ等の資料も援用させていただきました。