
| 備後の西国街道を行く
神辺宿〜備中備後の国境〜高屋宿 |
2005.12.13 |
| 2005/11/23 実施 | 制作:塩形 |
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井原七日市〜出部〜高屋宿〜備後国分寺〜神辺宿は岡山・広島県境にあって交通の要衝で、特に国分寺前は、古代の山陽道と近世の西国街道が交差しており重要でした。 |

枠内の中心市街の詳細図へ
神辺宿中心部の詳細図へ(下段) 高屋宿中心部の詳細図へ(下段)
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備中高屋宿から国境・藩境を越えて、神辺宿に至る。その後は芦田川越えして今津宿へとつながる。神辺宿は、安那郡川北村の七日市、三日市から川南村の十日市が宿場で町屋が建ち並んでいる。 神辺の近く、広島県福山市は、江戸時代になるまでは何にもない地域でした。江戸時代に入り、関が原で西軍が負け、毛利が撤退したあと、福山周辺を治めるため、水野勝成という、徳川方の譜代大名が神辺に入部してきました。 |
| 神辺宿〜高屋宿 案内図 ルートへのアクセス |
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午前9時20分、JR福塩線神辺駅に集合、ここから歩き出しました。 |
| 街道の見どころ案内 |
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なんと言っても、神辺宿の本陣はみどころ、広島県で唯一本陣が残っている。子孫も現在も住まれており、性格のにおいが実感できる。宿場町
の街並みも立派なものがあり、広島県で今残っている中で、一番立派なものである。 神辺は、周辺に国分寺があったり、古くから栄えていたことがわかる。古代の山陽道は東からここまでは同じ(ルートは多少動いている)で、西は、山沿いに府中に向かっていた。 「神辺に 日本の学府 拝見す 小さな塾に 熱い感動」(読み人知らず) |
| 神辺宿の本陣(かんなべ)(神辺町川北三日市) 塀にかこまれた構えの大きい屋敷が、神辺の西本陣、尾道屋菅波家が当主、門をく ぐると当時の風景がそのまま飛び込んでくる。(東本陣の本荘屋菅波家は残っていない。)部屋数27部屋、畳は200畳、大名とその付き添い70名の収容ができるほど規模が大 きい。左手奥に殿様の居室がある。筑前黒田藩がよく使っており、「筑前少将宿」「松平下野守」などの木製の宿札が数多く保存されている。(看板のよう なもの)。当時は、約40kmは歩いたそうで、本郷まで歩いて いくことになる。敷地内のおくに今も菅波家の子孫の方が生活されており、生きてい る家を実感できる。残っている本陣としては、広島県内で唯一であり、門も西条と、 今津のみである。 |
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| 菅茶山旧宅(神辺町川北七日市) 江戸時代、朱子学者で詩人の菅茶山は京に遊学の後、地元神辺にもどり私塾を開いた。ここ、神辺宿にて蓮塾を主催し、地域の文化活動に貢献した。後に、福山藩立の郷校廉塾神辺学問所となる。塾の後は、一部 今も残っている。宿場町東の本陣の近くにある。周辺の街並みも整然と残っておりす ばらしいものがある。 廉塾では、ガイドの方の説明を30分以上受け、十分に知識を得ることが出来ました。なんでもない水路が、当時としては、防火に役立ち、また、筆洗い場であったりと活躍していた様子が見て取れます。 |
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| ・・・ 一里塚(神辺町川北七日市) 平野の一里塚がある。 近所の方の話では、標示もなく荒れていたが、町内会で、現位置にきちんの表示板を設置したとのこと。榎が立っていた。 |
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| 堂々川の砂防石積(神辺町湯野迫山) 福山藩主阿部氏が、国分寺及びその周辺の民家、農地を守るため本格的な治水事業 を実施した。現代の土木事業でも通用するすばらしいものである。石積みは何回かに 分けて増築しているが、風景にマッチし環境的にもよい。上流に最近実施した砂防工 事があるが、石を張り付け模倣しているが景観形成で見劣りがする。 (今回は歩いていない) |
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| 国分寺(神辺町下御領) 大化改新以降、741年(天平13年)聖武天皇の国分寺建立の詔により、諸国に国分寺が建立されていき、ここ下御領に備後国分寺が出来た。山陽道の入り口に国分寺の標石があり周辺は松林がある。備後国分寺は、ここ設置された。幹線道路は、律令時代から多少ルートは変わっても備後国分寺の前を、山陽道、西国街道とも通過している。当時の街道から、本堂までは松が出迎え荘厳な印象がある。最近の発掘調査により、塔、金堂、講堂が発見されている。今はないが、周辺からその趣を感じることが できる。 備後国分寺は、江戸時代に立て替えられたとか、600尺四方の敷地であり、また七重の塔を有していたというから壮大さを推し量ることが出来る。和尚さんは、ありがたい言葉の話とは別に、国分寺の生い立ちをわかりやすく完結に教えていただきありがたく思いました。 |
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西国街道の道標(みちしるべ)(神辺町下御領) |
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| 四ツ堂と一里塚(神辺町御領) 上御領の一里塚に四ツ堂がある。 当時の領主が、旅人の休息の場にと作ったもので ある。 近くの、農家の人も、お地蔵さんにお参りをするなどしていたようだ。 町内会 で、最近立て直すなど、いい習慣が今も続いている。 |
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| 一里塚(神辺町御領) 上御領の一里塚がある。 慶長9年(1604)幕府は全国主要街道に江戸日本橋を起点とする一里塚の設置を命じました。塚の上にはエノキやマツが植えられました。神辺町内には上御領と平野にありました。現在は当時をしのび菅茶山の詩碑が建てられています。 近所の方の話では、つい最近まで、榎が大きく成長していたとのこと。そばに、辻堂がありゆっくり出来る。 |
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| 国境の碑(神辺町御領) 国境では、道標である石柱が交通事故に遭い、新築されていました。これには残念としか言うことが出来ない。 |
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高屋宿街並み(井原市高屋) |
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神辺城は、神辺平野を見下ろす標高約120mの黄葉山一帯に築かれていました。1335年に備後国守護に任命された朝山景連が守護所として築城したと『備後古城記』に記されています。以後、戦国時代まで約200年間山名氏など歴代の守護の居城として、備後の政治の中心となりました。 常夜灯(神辺町下御領) 下御領八幡(神辺町下御領) こもりうたの里 高屋(井原市高屋) 日輪大師堂法泉院(井原市高屋) |
| 神辺宿の中心部 |

| 高屋宿の中心部 |

| 記録のページ |
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主催:西国街道散策会 |