欽明路から玖珂〜周防高森まで

2007.10.24 小泉 彰 制作

       
案内図
玖珂宿 拡大図   
周防高森宿 拡大図
(歩かれる方は上記地図[・・・・・.gif]ファイルをコピーし、適当な画像ソフトを利用し貼り付け&印刷をし、お使い下さい) 

●概要
群雄割拠の戦国時代から幕末維新のゆかり地を歩きました。
毛利元就は生き抜くため様々な謀略を駆使し、大内氏の配下にありながら大内・尼子の狭間にあって着々と勢力を蓄積し中国地方を支配する大大名になった。

陶晴賢の謀反により、大内氏の正統は断絶する。広島の毛利元就は陶晴賢を討ち、大内氏にとって代わる

元就の孫 毛利輝元は、関が原の戦いで敗れ、旧領8ヶ国、121万石を没収され、周防・長門の防長二州36万石となり萩へ封じ込められた。
幕末期の四境戦争(第二次長州征討)
小瀬川(芸州口の戦い)や周防大島(大島口の戦い)において激戦が繰り広がられた。
毛利家の家系図を見ながら約4時間、歴史解説楽しみました。
毛利家 家系図
●街道見どころ案内  
 欽明路〜玖珂〜周防高森まで  約10km 

野口一里塚跡
欽明寺から西へ1.9kmの所にあったと言われています。
野口には旧山陽道の駅家(うまや)が関戸の次の駅として置かれていました。
現在は跡地に何もありません。
赤間関へ32里 小瀬川から4里

義民 田坂市良右衛門頌徳碑
児童公園の中にあります。
安政年間(1854〜59年)玖珂は岩国藩吉川藩領の代官所が置かれていた。
彼は悪代官の所業を正そうとして立ち上がり、岩国山に投獄や島流しの目にあいながらも無罪になり、
村民の為に良政を行ないました。四十ニ才で亡くなった時には二千人が会葬に集まったと言う事です。

玖珂市
玖珂の街筋は古来「玖珂三市」と呼ばれ、それぞれに毎月決まった日に市がたっていました。本郷市は7日と24日、新市は11日、阿山市は2日と20日といったぐあいです。
本郷市は市頭から柳井小路まで、新市は柳井小路から水無川まで、阿山市は水無川から市尻までです。

祥雲寺
毛利元就に敗れた鞍掛城主 杉隆泰の菩提寺。かつては末寺24坊もあった大きな寺院でしたが、兵乱により焼失し、岩国吉川家により慶安年間(1648〜1651)に野口に城泉寺として再建されました。そして、元禄14(1701)年に現在の地に移し、元文4(1739)年に祥雲寺として寺号を復活させました。境内には杉隆泰父子の墓があります。現在は無住職ですが、薬師堂は今年建て替えられ、今も改築中です。

JR玖珂駅
ここで休憩し昼食。
「鞍掛合戦千人塚碑」イメージした
会員証に押印しました。

駅舎の後は鞍掛山240mです。

 

玖珂本陣跡
本郷の北側、玖珂小学校の校庭の場所にありました。西南の隅に大きなモミの木があって、そこに御茶屋の庭があった。代官所も置かれていた。

柳井小路
玖珂こども館の東にあります。
本陣前から南に柳井へ向かう小路が延びて柳井小路と呼ばれていた。中世以降、柳井は西日本有数の商業都市として栄え、柳井と岩国城下町との間は、物資流通の道として海上流通が盛んであったが、陸路では柳井津から玖珂を経由して山陽道を東上するルートが利用された。
浄光寺
「玖珂」という呼び名は、養老5年(721)に野口の里より玖(黒石の玉)、珂(潔白で雪の如し)の玉が出て、これを奏聞したことから熊毛郡を分けて玖珂郡を置いたのが始まりといわれている。この玉を浄光寺の霊泉で磨いたことから山号は清玖山宝珠院と名づけられた。

本堂は崩され、更地になっていました。
改築予定あります

鞍掛合戦千人塚
周防、長門を支配する大内義隆には陶、内藤、杉の三奉行がいました。毛利元就は厳島合戦に勝利した弘治元年(1555)9月29日から日を置かず周防岩国にやって来て、
大内三奉行の一人、鞍掛城主 杉隆泰と戦ったのが鞍掛合戦です。杉隆泰は3万石を領し、周防一円の宗宰者の地位にありました。陶晴賢が主君大内を倒し、毛利と厳島で戦った際には積極的な援助を行わず、鞍掛城に立て篭もっていました。杉と領域を接している蓮華山城主の椙杜(すぎのもり)隆康も共に毛利の支配になっていましたが、椙森は杉が大内に寝返るとみて証拠をつかもうと密かに見張っていました。椙杜は山口に帰る修行僧に託した杉からの密書を見つけ元就に急進し、元就はすぐに鞍掛城を攻めました。

不意を衝かれた鞍掛城は2600の兵力で防御したが、毛利軍7000にはかなわず、1370余人の将兵が討死して落城した。将兵はひとまとめにして埋葬されその墓は千人塚と呼ばれている。

碑の側に杉氏の家老の一人宇野景政の末裔にあたる宇野千代の「史跡 千人塚に思う」の供養碑がたつ。

水無川
この一体は典型的な扇状地帯であると言われ、勾配は約9度で、扇状地の表面を流れず自然と地下に沈着し、地表流となって流れるのは洪水時だけです。

阿山の街並みを歩きます。

東川を渡ると玖珂町から周東町 に入ります。
こんもりした山は泉山です。
椙杜(すぎもり)神社
蓮華山城主の椙杜正康の祖父大田時直が、足利尊氏に従って九州に向かう途中、鶴岡八幡宮を高森に勧請して「泉山八幡宮」と称したのが始まりで、その後正康は筑後から椙杜に移り大田姓を椙杜姓に改め大内氏に仕えた。その後泉山神社は椙杜神社と呼ばれるようになった。正康の孫の隆康は鞍掛合戦の後、毛利の信頼を得て杉氏の遺領を分割給付された。後に元就の五男元秋を養子に迎えるなどし輝元の信頼も厚かった。泉山は豊臣秀吉が文禄年間(1592)朝鮮出兵で九州に向かう途中、一夜の陣を敷いたという。中国行程記には参道入口西側に椙杜一里塚が描かれている。

高森宿
高森本陣は相川家が勤め、相川本陣とも呼ばれていた。
脇本陣は受光寺と山本家が勤めた。
高森本陣は、萩本藩の東端の本陣として重要視され、幕府軍と長州藩との戦いである四境の役(第二次長州戦争)での休戦協定成立の舞台になりました。街道から2km程南下した所に遊撃隊の陣営地になった通化寺もあり、幕末維新のゆかりの地です。

吉田松陰宿泊地
安政元年(1854)、米国への密航に失敗した吉田松陰は、その罪で萩に護送される途中、高森の亀屋市之助宅(現在よしもと米穀店)に泊まっています。

宇野千代文学碑
宇野千代の生まれは故郷岩国であるが、早くに母を亡くし、父の実家である高森で育てられた。造り酒屋である実家の敷地裏に「宇野千代文学碑」が建てられている。側に岐阜県根尾谷にある薄墨桜から移植され 春には美しい花が咲きます。宇野千代の作品には高森、玖珂地域の風景が数多く登場します。

高森天満宮
防府・柳井と並ぶ周防三天神の一つ、天文年間(1736〜40)に社祠が建立された。

 
編集後記
ホームページ担当山根さんにはホームページ作り大変お世話になりました。解説の文章作りは会員中川さんの資料を多数引用させていただきました。