周防の西国街道を行く

高水〜今市宿〜高森宿

2007.12.20
2007/11/10 実施 制作 本文:塩形幸雄
    地図:山根政則

西国街道、周防の国、萩藩では、山陽道と呼んでいる。玖珂の町は、岩国支藩が支配していた。また、その周辺は、徳山支藩、萩本藩が混在している。なだらかな土地だが、土手などで区分されていたようだ。
 地形的には、なだらかな地形が続いている。農耕地が広がっている。肥沃な土地でもある。
 明治時代、山陽鉄道を敬遠した土地柄、酪農などもされていたようである。
 結果、山陽本線は、柳井方面にまわってしまった。このため、発展が遅れた感があるが、反面、優良な田園風景が残っているということ。でも、国道2号、鉄道(岩徳線)が集まるところだ。
 高森から、高水の間、中山峠の頂上には、玖珂郡と、熊毛郡との境を示す碑が建っている。
 今市の宿に、正覚寺(浄土宗)がある。ここは、宍戸就尚の夫人(正覚院)の菩提をとむらうために建立された。ここは、今宿の脇本陣でもあった。


(歩かれる方は上記地図[takamoritakamizumap.gif]ファイルをコピーし、適当な画像ソフトを利用し
貼り付け&印刷をし、ご利用してください) 


高水〜今市宿〜高森宿 案内図 ルートへのアクセス

 JR岩徳線周防高森駅に集合、前回の続きを歩くこととし、西へ、徳山方面に歩き始めました。このたびの説明者は、中川さん病気療養中につき、ふたたび、平田さんに案内、説明をお願いしました。
 周防高森を出発、島田川沿いを行く。途中、学校にて食事。米川、差川、中山峠、今市の正覚寺とすすみました。正覚寺にて集合写真、本堂で参拝、休憩しました。そののち、今市の宿、高水の駅を通り過ぎ、高寺観音道標まで歩きました。ここまでで、15時30分、このたびは、ここで解散、一行は、高水駅より、帰路につきました。
 平田さんには、2度目の説明をお願いいたしました。ありがとうございました。このコースで5時間くらいで、2里は歩いたようです。

街道の見どころ案内

 周防は、中世においては、大内氏の勢力下、戦乱の世の中になって、陶氏が下克上を起こす。結局のところ、地元をうまく、指揮下に入れる前に、毛利と対決する。陶氏は敗れ、周防の諸将は困惑する。今市は、広島から入ってきた毛利の家臣、宍戸氏が支配する。宍戸就尚の夫人は、毛利元就の娘でもある。

 高森から、高水の間、中山峠の頂上には、玖珂郡と、熊毛郡との境を示す碑が建っている。
 今市の宿に、正覚寺(浄土宗)がある。ここは、宍戸就尚の夫人(正覚院)の菩提をとむらうために建立された。ここは、今宿の脇本陣でもあった。

「あたたかく みかんいただく 正覚寺 きもちやすまる 仏のこころ」(読み人知らず) 


高森宿の本陣付近
高森宿本陣は相川家が勤め、相川本陣とも呼ばれていた。脇本陣は受光寺と山本家が勤めた。現地には、門などの形が残っている。ちょっと風景を味わえる
高森宿の街なみ
 高森宿は、少し当時より道路が拡幅されている。このため、風景が換わっていると思われるが、神社、天満宮、本陣、酒蔵あとなど見て取れ愉快である
島田川
 高森八幡宮の前を島田川が流れる。この近くの市尻に島田川通船発着場が置かれていた。明和5年(1768)地元の大庄屋により通船事業が始められ、川の浚渫・護岸工事を実施して、底の浅いひらた船により島田川河口の光市方面まで穀物や資材などを運送していた。夏季は干ばつなどもあり常時運行することは出来なかったようである。
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差川一里塚跡
   JR米川駅の手前、蛍橋の付近に差川一里塚があった。赤間関から30里、小瀬川から6里の地点であるが、その所在地は明確でない。(一里塚編に掲載)

旧宗泉寺跡
 山口県風土誌には慶長7年(1602)の創建で、明治3年に淡海和尚の碑高森の浄土寺に合わされたとある。寺伝では太閤秀吉が朝鮮への下向の碩、御休場にもなったとある。
 江戸時代になって薩摩の島津公が参勤の道中、当寺を休急所に定めていたという。参道には石仏が4体あるが、これは、淡海和尚の新道完成を祝って、篤志家宗泉寺跡の石仏が寄進した西国三十三番観音のうちの4体である。
 左から32番観音正寺、29番松尾寺、33番華厳寺、30番宝厳寺の模倣である。

賓の神
 中山峠の頂上近くに育の神を祀った小さな祠がある。かつては街道松が高く そびえていが、今では切り株が残るのみ。

群境の碑
 碑の手前100mには駕寵建場の跡がある。中山峠の頂上には玖珂郡と熊毛郡 との境を示す碑が建っている。

正覚寺
 正覚寺は浄土宗の寺、本尊は阿弥陀如来です。寛永年間(1624〜43)に三丘領主宍戸越後守就尚夫人正覚院の菩提を弔うために建立されました。ここは、天明年間(1781〜88)から今市宿の脇本陣を引き受けていました。
 正覚寺が天明年間に脇本陣を引き受ける時代背景は、次回訪れる呼坂本陣も同様ですが、九州の諸大名が参勤交代する際、それまで使っていた海路から陸路をとることが多<なり、宿駅の整備が必要になったためと考えられます。

今市宿
この宿は西の呼坂宿から僅か2kmの所にあり、小休所には正覚寺または岡田家が当てられました。「上り高森へ行程2里、下り呼坂へ行程半里。人足40人、馬15頭」とあります。ただし、今市宿では人足30人以上、馬10頭以上を必要とする時は、呼坂と共同で提供した。呼坂宿との相互補完と共に、中山峠を控えての宿場であった。
 今市宿は約100mの町並みですが、南側には古い家が並び、北側は比較的新しい家が建っています。国道改修のとき、北側を後へずらして建替えたためです。南側の家はほとんど明治の初期に建てられたもので、間口の広い立派な家が並びます。

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高水一里塚跡
高水村塾址の碑の傍らに、一里塚があった。大正期に取り除かれたようだ。
赤間関から29里、小瀬川から7里の地点である。(一里塚編に掲載)



掛の坂
 この辺りは「掛の仮」と呼ばれ、山の岩盤が川に突き出し、街道は岩盤 を越え、竪板のような急な仮となって、古来旅する人馬を悩ませた所であ った。
 「地下上申」には「掛の仮と申すは、大川の上に往還道かけ道仮に 付き云々」とあり川の上に桟道をかけていたものらしい。昭和9年岩徳線 が開通するにあたり、岩盤を粉砕して線路を敷設し、新道も付けられた。 
 ここから西は、街道松の並木が昭和の初めまでよく保存されていたが、戦時中から伐採され始め、あるいは枯死して一本もなくなった。

差川十宇路
 ここから南、光方面の島田川沿いの道は細道かおるだけで、増水の時は交通途絶と なっていた。
 貞昌寺の僧淡海和尚が新道の開拓を思い立ち、観音を念じて、苦心の末、右岸沿いに差川〜弘末の間13町(1418m)を天保2年(1831)に完成させた。十字路を右折し約2.5km北上し、国道2号線を横切った先に淡海和尚の碑が建っている。

高寺観音堂道標
北1.5kmの所にある安国寺の高寺(たかでら)観音堂への道標です。高寺観音堂は行基の作と伝えられる室町時代の聖(しょぅ)観世音菩薩(高さ52 cm)を本尊とし、脇侍に不動明王(高さ58 cm 室町時代作)、毘沙門天(高さ59 cm 室町時代作)、天部(高さ67 cm 藤原時代作)が祭ってあります。(下記解説参考)

仏像の分類について
 ここで仏像の位について考えてみます。今日歩いてきました宗泉寺や正覚寺の御本尊は阿弥陀如来でした。そして、高寺の御本尊は聖観世音菩薩でした。このように仏様は如来・菩薩・明王・天部の4つに分類することができます。

如来像について
 如来様には大日如来・釈迦如来・阿弥陀如来・薬師如来などの仏様がある。悟りを開いて仏陀となっていること。如来様は最も高い位にいる仏様。如来様は出家後の釈迦の身なりと同じように、原則として持物は持たず、装身具も身に付けていません。

菩薩像について
 菩薩様には千手観世音菩薩・十一面観世音菩薩・地蔵菩薩・聖観世音菩薩などの仏様がある。菩薩像の特徴は如来に付き添って修行をしながら、人々を救う努力をしたことです。地蔵菩薩を除き、基本的には長い髪を結って王冠を戴き、華やかな衣装を身に着けているのが特徴です。
 高寺の聖観世音菩薩は心の声を聞き、あらゆることを見て、どんな願いでもかなえてくれる現世利益の観音様です。装身具を身に着け、宝冠の前に付いている小仏、左手に持っている蓮華が特徴です。

明王像について
 不動明王などの明王像は密教で初めて成立した神で、如来の使者の役目をしている。右手に宝剣、左手に頴索(けんさく)などの武器を握りしめ、目を見開いてにらみつけているのが特徴です。その威力で邪悪や仏敵を従わせ、煩悩や悪を粉砕するという闘争的な仏様です。

天部像について
 毘沙門天などの四天王や仁王様の金剛力士が天部像に属します。超人的な力を持つ古代インドの神が、仏教に帰
依して形成された仏様です。如来・菩薩・明王に次ぐ位置にあり、具体的で分りやすい現世の利益をもたらしてくれる存在です。
 例えば毘沙門天は上杉謙信が戦勝の神として祭り、今では善行を積み重ねたものに福を授けてくれる商売繁盛の
神として庶民の信仰が集まっています。


記録のページ

主催:西国街道ぶらり旅の会
日時:平成19年11月10日(土)10時30分〜15時30分
参加:46名