
周南市高水から下松市久保まで |
2008.1.29 | 本 文 :中川 正 地図と写真:山根 政則 |
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| (歩かれる方は上記地図[027takamizukubomap.gif]ファイルをコピーし、適当な画像ソフトを利用し 貼り付け&印刷をして、ご利用してください) |
| ●街道見どころ案内 お勧め:このコースの見どころは高水駅を降り、歩き始めて最初に到達する呼坂本陣地区でしょう。昔から裕福であったと見え、今は周南市指定文化財になっている呼坂本陣跡の旧家(今も居住されている)を始め、付近の住居は門構えも立派な家屋敷が多く、広い田畑がその街並を支えているのでしょう。 |
| 周南市高水宿から下松市JR周防久保駅まで 7km | |||
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JR高水駅 JR岩国駅の山陽本線駅で下車。1番線ホームより岩徳線徳山行きに乗車し約45分で高水駅に着く。 |
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橿原神社(かしはらじんじゃ) 弘仁2年(811)紀伊の熊野大権現を勧請した。王子権現といっていたが、明治元年太政官布告により、権現は仏道である故解除すべしと命ぜられた。神武天皇が東征の砌、呼坂に一泊した故事により、大和橿原宮にちなんで明治6年に橿原神社と社号を改めた。神武天皇を祀っている。 |
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呼坂本陣 (よぶさかほんじん) 呼坂本陣はどっしりとした門構えの河内家である。広大な敷地に土蔵づくりの建物が残る。河内家は代々庄屋を勤め、家業は酒造業であった。九州の島津公や秋月、島原の藩主などが利用したという。 今川了俊は応安4年(1371)9月22日に呼坂に泊まっている。「道ゆきぶり」に「はるばると越え過ぎて、また海老坂(えびさか)という里に寺の侍りしにとまりぬ。廿二日なるべし」と書いている。昔はえび坂と呼ばれていた。 |
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松蔭決別の地 安政6年(1859)、萩の野山獄につながれていた吉田松陰は江戸送りの命により唐丸駕籠で護送された。6月3日呼坂出身の寺島忠三郎はたまたま郷里に帰っていて、人ごみから密かに別れを惜しんだ。その後忠三郎から久坂玄瑞に宛てた手紙によると、「縄付き、護送役人番人30名という警戒ぶりの内に松蔭先生は駕籠の中で静かに本を読んでいた」。忠三郎は声を掛けることが出来なかったという。寺島忠三郎は松下村塾の三弟子の一人に数えられ、後に蛤御門の変で久坂玄瑞とともに死んだ。時に22歳の若さであった。 安政6年5月、松蔭は忠三郎に次のような決別の歌を詠んでいる。 「かりそめの 今日の別れぞ 幸なりき ものおも言わば 思いましなん」 忠三郎もこれに対し、次の歌を返している。 「よそに見て 別れ行くだに 悲しさを 言にも出でば 思いみだれん」 |
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真宗 西善寺 呼坂宿の西の端にあり、本願寺派で高い寺格を持つ寺だといわれる(上座二等甲種特別)。天正4年(1576)3月の創建。天明年間(1781〜)から呼坂宿の脇本陣を勤めた。門徒数は600余戸あったという。参道入口には高札場があった。 開基の法住法師は俗称を末岡四郎丸といい大力であった。ある日、太刀野山へ登り天狗と一日相撲を取り、その多くを勝った。天狗は四郎丸に汝の孫々まで火災を防ぐであろうと約束した。四郎丸はその後出家してこの地に建てたという。 |
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古市坂 (コックリ坂) 西町からすぐ坂の方を登ると古市で、呼坂の起源になった旧い集落である。この坂道が古市坂で欽明路峠や中山峠と共に交通の難所であり、コックリ曲がりと呼ばれる距離は短いが大変な急カーブがあったという。昔は人力車もここは客に降りて貰ったと言われている。どうしても乗ったままで登るときは二人引きでないと越せない坂である。 |
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熊毛神社 参道約100mの両側に石灯籠が並ぶ。石の大鳥居は元禄14年(1701)の建立。祭神は三宅入沼命、玉依姫命。神社の縁起によると、天平10年(738)、正税帳に当神社の登録があり、嘉祥4年(851)従六位上の神階を賜ったという。 周防の国の由緒ある古社で、始めは羯摩(かつま)八幡宮と称していたが、朝鮮出兵の途中の豊臣秀吉により勝間八幡宮と改められたという。周防一の宮逗子大神勝間八幡宮と称する。秀吉は九州からの帰途、再び勝間に寄り、勝間八幡宮に戦勝祝として、諫鼓踊(かんこおどり)と太刀と神馬を奉納したと伝えられる。明治3年熊毛神社に社号を改めた。諫鼓踊は県の無形文化財に指定されている。 |
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エピソード 岩徳線物語 岩国と徳山を直線で結ぶ岩徳線は、昭和9年に開通した。海岸線を走る現在の山陽本線はそれより先、明治31年に開通している。当初、鉄道省は岩徳線ルートを本線として計画していたが、それまでの街道で生活していた馬子や駕籠屋の大反対に加えて、地元からも牛が驚いて乳を出さなくなるなどと猛反対が出て、やむを得ず海岸廻りに計画を変更したという。ところが、その後内陸部はすっかり寂れてしまい、慌てて地元は大陳情の運動を繰り広げた。永年かかってようやく念願がかなったが、経済の流れは再び内陸に戻りはしなかった。 岩徳線開通当初は距離が短縮されたことからこちらを山陽本線とした時期もあったが、結局、複線化されないローカル線で終わってしまった。 建設を急いだためか、岩徳線のルートは旧山陽道の上に線路を敷設した箇所が多く、昔の街道は崩壊してしまった。 |
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御所尾原 勝間の西の端に、街道の北側に小山を開拓して御所尾原団地という住宅地があり、ここは御所ヶ原といって、文禄元年(1592)4月、太閤秀吉が朝鮮出兵の途中、ここに陣所を設けたという伝承がある。 秀吉は間近な森に見える神社を指して「あれは何という社か」との問に「あれはカツマ八幡宮です」と答えたところ、「それは出陣に当たり実に縁起の良い社だ、参拝しよう」といい、翌朝、陣下に流れる小川で手洗いして参拝、戦勝祈願したと言われている。 |
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「遠見一里塚」跡 toomi 間の宿であった勝間の集落のはずれで、峠の上からのろしを上げて大名行列や役人の到着を宿場に知らせていた場所で「遠見」と呼ばれていた。今は国道の脇に僅かに面影の残る街道があり、遠見一里塚の跡があった。一里塚は大正時代に取り除かれたという。小瀬川から8里、赤間関から28里の一里塚である。塚の前の小林宅の屋号は「塚の本」という。
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三宅親子顕彰碑 父の三宅九内は深く漢学を研鑽し、自宅の寺子屋で指定に学問を教えていた。享和2年(1802)大河内領主の粟屋親睦が大河内に敬学堂を創設した際、九内は学頭に迎えられ生涯をその教育に注いだ。父九内の没後、長男三宅次平が敬学堂の教育に専念し、父子の努力で多くの人材が輩出される。 |
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郡堺の碑 遠見から峠、峠市と登ると国道のほとりに郡堺の碑が建つ。「東周防の国熊毛郡 西周防の国都濃郡」とある。現在の周南市(旧熊毛町)と下松市との堺である。蜀山人=大田南畝は九州から京都にのぼる道中記「小春紀行」(文化2年 1805)の中で「松原をゆけば道の左に従是東熊毛郡、従是都濃郡といえる杭なり、わびしき人家あり、たお市といふ」と書いている。 |
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切山由来 周防久保駅の北3kmばかりの地域は今でも切山の地名が残っている。切山村は「地下上申」によれば、「古は高山と申していたが、その昔淋聖太子が、青柳ヶ浦に到着の時、あの霧がかかっている北の山はなんという山かと尋ね、あれが霧山という山ですと答え、それから霧山村と申したということである。また、三十三間堂建立の時に、三十三間の棟木をこの村から送ったと言い、それから切山と呼ぶようになった」という。また「注進案」によれば別の謂われで、桐山と呼ぶようになったとも伝わる。 豊臣秀吉が九州への途中、「この地は」と尋ね、「切山というところだ」と答えたところ、「切山とは敵を切ることで、まことに幸先よし」と喜んだとか。これが切山由来である。 |
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JR周防久保駅 終着し乗車地点となるJR周防久保駅の様子。 周防久保駅から岩国駅まで約1時間を要する。徳山駅まで20分くらい。 |
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