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周防久保から櫛ヶ浜まで |
2008.4.25 | 地図・文とも:中川 正 |
| 周防久保ー櫛ヶ浜 区間図 |

| ●交通手段 ・JR岩徳線 周防久保駅下車 約10kmの行程 ・帰路は山陽本線櫛ヶ浜駅より乗車(岩徳線は運行本数が少なく山陽本線がおすすめ) 今回の「西国街道ぶらり旅」は、桜の花がほころび始めた早春の周防路を散策した。 |
●街道見どころ案内
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JR岩徳線 周防久保駅 集合 3月29日(土) 総勢約50名 快晴のもと元気にスタート。 電車の時刻の都合で、やや遅めの午前11時に出発。 国道2号線を左にとって歩きはじめる。約100mほどで旧山陽道からの合流点に達する。 二の瀬で国道2号線と別れ、左の街道を進む。街道は切戸川を二度わたり久保市の宿場町に入る。 |
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由加神社 久保市の入り口、切戸川のほとりに由加神社が建つ。 天保9年(1838)12月の大火により、宿場町の大半は焼失してしまった。 その後、備前国田の口(倉敷市児島)の由佳本社から、火よけの神として由加神社を勧請した。それ以降、これまで度々あった火災が全くなくなったという。 |
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久保市 久保市の地名は山の谷あいのくぼ地の町並みであることから、くぼ市=窪市=久保市といわれるようになったとされている。 町の中心に恵比寿社が祀られ、ここから西へ、岡市までの街道は坂道を登る。 江戸時代、家屋は街道の北側に25軒、南側に26軒の小さな宿場町であったといわれるが、本陣もおかれ、宿馬も10匹置かれていたという。 この静かな久保市も、明治維新の戦火に巻き込まれている。大政奉還の直後、明治政府の転覆を図った萩の前原一誠と、征韓論に破れ野に下った西郷隆盛との仲を取り持ったのが、久保村出身の今田浪江といわれる。今田は同士とともに、この地に立て篭もり、花岡の勘場を乗っ取るなどして気勢を上げた。しかし、この企みはすぐにつぶされた。が、これが萩の乱の導火線になったともいわれる戦いであった。 |
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岡市 狭い坂道を登りきると、右側が開け遠くまで見渡せる。窪んだ場所から岡に登った場所なので岡市といわれるとか。街道と平行して右下に国道2号線が続いている。 登りきったところに恵比寿様が祀られたいる。このあたりに岡市一里塚が置かれていたと思われるが、その痕跡はどこにも見あたらない。 |
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鏝絵(こてえ) 恵比寿様と道を隔てて、山側の民家にすばらしい鏝絵が描かれている。 鏝絵は江戸時代の終り頃より、左官職人たちが壁塗り材料のしっくいを使って、余技として龍や霊亀などの想像上の動物が描かれたものが多い。新築祝いとして送られたものであろうか。 |
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塩売垰(しおりがたお) 岡市から久保中学校を左に見て過ぎる。左の山すそをまわるゆるやかな坂道にさしかかる。左右には家がまったく無い。 塩売垰と書き「しおりがたお」と読ませる山道である。汐入峠、枝折峠とも呼ばれたとあるが、古くはこの辺りまで海水が打ち寄せていたとの話も残っている。久保市、花岡の食塩交換所があったといわれる。 現在では山道も明るくなっているが、昔は山賊が出没したこわい道であったとの話も。 |
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塩売垰から右下に延びる国道2号線を眺める。 |
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生野屋 塩売垰を下ると国道2号線に出る。国道の向こう側に新幹線の高架が長く続いている。 この辺りら生野屋地区に入る。 生野屋には、奈良時代に山陽道の駅家(うまや)が置かれていた。駅馬(はゆま)廿疋を置く、大きな駅家であったといわれる。 国道2号線の歩道を歩き、地下道で国道の向かい側に渡る。JR生野屋駅の横で踏み切りを越え、すぐに左折して、花岡の宿場へと進む。 |
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浄土真宗 教応寺 教応寺は弘治2年(1556)11月の創建で尊城寺といわれていたが、寛永17年(1640)から教応寺と改称している。 街道筋にあったため、代々の藩主等が立ち寄った記録が残っている。徳山藩初代藩主毛利就隆の位牌を安置し、毎月の命日には読経供養しているという。 寺院造営に当たって、用材一切を徳山藩から受領し、宝永5年(1708)2月10日に落成したとの寺伝もあり、藩から手厚く保護されていた様子が伺われる。 |
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花岡本陣跡 花岡宿場町の中ほどに花岡本陣があった。 江戸時代、都濃郡は萩本藩と徳山支藩領とに分割支配されていた。花岡は萩本藩領に属し、この地域の中心であり、本陣をはじめ勘場(代官所)、番所、高札場などが置かれていた。 本陣は藩主や九州諸侯の参勤交代の宿所となっており、文久元年(1861)萩藩主毛利敬親公は上洛の途中、病にかかり約2週間この本陣で静養をとった。 本陣跡には、その時、敬親公の心を慰めた「春雨桜」が植えられていたという。また、本陣の絵図や「勘場跡」の石碑も残されている。 |
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法静寺と福徳稲荷社 花岡本陣跡の西に浄土宗法静寺がある。 法静寺は慶長年中(1596-1615)に創建され、はじめは正覚寺と称していた。本陣に近いため、諸大名の宿舎にもなっていた。 法静寺の境内に福徳稲荷社がまつられている。 伝承によれば「享保9年(1724)8月18日に当時の住職が、遠石浦の白狐夫婦の死を厚く弔い、法号を与え寺内に葬った。白狐は喜び、夢に告げて火難盗難を避け、出世福徳の功徳を授けるといった。後に、代官所の書類が紛失し3年間判らなかったが、稲荷に祈願すると直ちに見つかったという。代官は大いに喜び、正一位稲荷大明神の神号を受け神殿を建てて厚く尊崇した」という。 |
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キツネの嫁入り 花岡まつりと呼ばれる福徳稲荷社の稲穂祭は毎年11月3日に行われ、「キツネの嫁入り」が有名である。未婚の男女がキツネの面をかぶり、かみしもとうちかけ姿で人力車に乗って周辺を練り歩く。この行列に参加すると良縁が得られるとの評判で、若い女性の人気を集めているとか。 (写真は稲荷社横に飾られているキツネの嫁入り人形) |
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花岡八幡宮 花岡八幡宮は和銅2年(709)に宇佐八幡宮の分霊を勧請したといわれる。大内、毛利両家の庇護を受け、社殿を造営再建し、毛利家の祈願社でもあり繁栄した。 拝殿には、龍の彫刻が施され、正面上部には従一位近衛忠煕 の筆による「永受嘉福」の額が掛かる。 その他、豊臣秀吉の朱印状をはじめ多くの古文書類、大太刀等が所蔵されている。 数年前から改修工事が行われていたが、今年3月にようやく完成した。シートを取り払ったばかりの社殿は、ひときわ輝いて見えた。 |
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閼伽井坊(あかいぼう) 花岡八幡宮の石段下の西側に 真言宗閼伽井坊が建つ。 かって花岡八幡宮の社坊は10ケ寺あったが、閼伽井坊は現存する唯一のものである。本尊は虚空蔵菩薩である。 「閼伽」とは仏前に供える清浄な水をいい、その閼伽を汲む井戸ということで八幡宮や社坊へお供えする水が汲まれたところであった。境内に閼伽水が湧き出ている。 |
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閼伽井坊塔婆 多宝塔 (国指定 重要文化財) 花岡八幡宮の石段を登りきったところに、国の重要文化財に指定されている多宝塔が建っている。 二層重ねの多宝塔で閼伽井坊の塔婆であるといわれる。この塔は藤原鎌足が建立したと伝えられる日本16塔の一つで、現在のものは室町中期に再建されたものである。 三間四方の二重塔婆で、塔屋根は柿葺(こけらぶき)、総高13.5メートルある。内部には本尊の金剛界大日如来像が安置されている。 全国でも仏像の残る多宝塔は少なく、明治初期の神仏分離の時、ほとんどが焼きすてられたが、花岡八幡宮では密かに保護し、伝えきたものだといわれている。 |
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花岡宿場町 花岡という地名は、「八幡宮に往昔、七香里と申す樹木があり、大きさ七抱半廻りの大木で、開花時には郷中匂い薫しく、落花のときはおびただしく散乱する。それで山号も花岡山と名づけ、所の名も花岡と古来申し伝えている。」と山口県教育委員会発行の「歴史の道調査報告書 山陽道」に説明されている。「七香里」の樹とはどんな樹か不明であるが、「中国行程記」では、この樹の名を「七里香」と書いている。 花岡八幡宮の絵馬には、旅籠や商店などが立ち並び、街道を大勢の人が行き交う門前町、宿場町の様子が見られ、大変な賑わいを呈していたと伝えられる。が、今はもの静かな町である。 「行程記」には、八幡宮前から西約300mの処に古所(こそ)とあり、豊臣秀吉の御止宿御旅館と書かれている。「豊臣秀吉九州下向記」に、天正20年(1592)4月16日に花岡宿泊とある。 |
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末武川河畔 広石一里塚 広石の集落を過ぎると、右手に末武川の流れが見えてくる。「中国行程記」には、末武川に架かる土橋の手前に一里塚を描いている。広石一里塚であるが、今では何の痕跡も残っていない。新幹線の高架をくぐる辺りかと推定している。 この先の街道について「行程記」では土橋を渡り、末武川の西岸を川に沿って南下するように描かれているが、江戸末期ごろ現在の東岸の道に変わったものらしい。 なお、西岸沿いには桜の古木が沢山植えられており、皆で歩いた時は開花には少し早く、未だ蕾のままであったのは惜しまれた。 |
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見上げ坂 末武川を和田橋で渡り、和田地区に入る。しばらく進むとコンクリートに固められた小川に出る。この小川が下松市末武と周南市久米との境界となる坂本川である。 すぐに坂道にかかる。舗装はされてはいるが、二間半の道幅は旧山陽道のままで、このゆるやかな坂道は見上げ坂と呼ばれている。 順正寺の前を進み、新幹線の高架が見え始めるところで左折して久米市に入る。 (追記) 見上げ坂について、先日地元出身の岡田順一様より次の御指摘をいただきました。「写真の見上げ坂は明治20年につくられた道路である。旧山陽道は坂本川の所から北部の急坂を通り難所の一つであった。現在は私有地で廃道となっている」 |
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久米市 久米市は駅家こそ置かれなかったが、古来からの交通の要衝として発達してきたといわれている。 「注進案」には「往還筋に沿って東から西に人家が建ち並び、道の左右に凡41軒、道が南西に折れた所には20軒ある」と記している。現在では南側に旭ヶ丘団地が建てられている。 久米市の中心に高札場があったといわれるが、今は何もなく、祭礼の御輿を置く台石だけが空き地に残っている。この空き地もここ数年のうちに縮小され、隣の半分は駐車場に変わってしまった。 |
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防長鶴酒造 久米市を進み西光川を渡った街道は右手に大きな酒造会社の前で右折する。防長鶴の醸造所、創業明治8年(1875)の山県本店である。 |
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国道2号線と合流 櫛ヶ浜駅へ 新幹線のガード下をくぐると、桜木3丁目の交差点で、国道2号線に合流する。これで山間の周防路を踏破し瀬戸内の海岸線まで到達したことになる。 ここからは右手の早乙女坂に入り遠石宿へと進むが、本日のコースはここまでで打ち切り、南西約500mのJR櫛ヶ浜駅に出て帰途についた。 |
| 櫛ヶ浜について 櫛ヶ浜は旧山陽道から少し離れているが、ひとこと付け加えておきたい。 櫛ヶ浜はもと串浜と呼ばれ、江戸時代は萩本藩領であった。櫛ヶ浜という地名は「中国行程記」には「昔、厳島明神が黒髪島に鎮座されたとき、この浦に櫛を落とされた古事による」と記されている。 現在の櫛ヶ浜は、埋立られた海岸に多くの化学工場が立ち並んでいるが、古くは漁業の町として栄えてきた。最盛期には80余隻の漁船を有し、五島列島近海まで鰯漁に出かけていたという。 寛政10年(1798)長崎湾口で、樟脳と銅を積んだオランダ船が嵐により座礁した。沈没した船を救う技術は当時の日本にはまだなかった。いろいろ工夫を凝らし、日本人として初めて引き上げに成功したのが、櫛ヶ浜出身の村井屋喜右衛門であった。喜右衛門は当時、九州に出漁して操業していたが、この危難を救ったことでオランダから深く感謝された。日本サルベージの元祖ともいわれている。オランダ側から「礼はなにが欲しいか」と聞かれ、「オランダの帽子とキセル」と答えたという。その後、オランダから年々フラスコと砂糖が送られてきたといわれる。藩主毛利斉房公よりは永代苗字帯刀を許された。 |