周南市櫛ヶ浜〜新南陽  


 2008.11.15  

本文:中川 正
写真・地図:小泉 彰


案内図

徳山藩の歴史

中世のころ、徳山地方は「野上の庄」と呼ばれ、陶家の重臣野上氏が領していた。弘治元年(1555)陶晴賢の滅亡により「野上庄」は杉元相(もとすけ)の所領となった。

大内一族であった杉元相は、はじめ陶晴賢に従っていたが毛利方に恭順しその家臣となった。元相の所領を継いだ長男の杉元宣(もとのぶ)は、毛利輝元に仕えて軍功をたてたが、天正17年(1589)徳山沖で横死し、その子孫も没落した。

毛利輝元は杉元宣の妻を側室とし、後に萩藩主となる長男秀就、徳山藩主となる次男就隆(なりたか)をもうけた。元和3年(1617)に次男就隆は都濃郡(つのぐん)3万石を分知され、はじめ居館を下松においたが、
慶安3年(1650)に野上に移転して徳山と改めた。就隆は輝元が50歳を過ぎての末子で溺愛され、
長じても手元に置かれていたため、自由奔放、甘えん坊で何かと萩本藩とのいざこざが多かった。

毛利藩は支藩として、長府毛利氏、徳山毛利氏、岩国吉川氏(藩として認知されず)を置いていたが、
その後も本藩と徳山藩のいざこざは続いた。徳山三代藩主元次(就隆の四男)の時、本藩との間に松ノ木の盗伐事件から領界の論争が生じ、それが端著となり徳山藩は改易にまで発展した。

正徳6年(1716)萩藩主毛利吉元が徳山藩主元次の隠退を幕府に請願し、徳山藩は改易、その所領は萩本藩に還付し、藩主元次は出羽国新庄藩にお預けという厳しい処分となった。
その後、家臣の奈古屋里人(なごや さとんど)等の奔走により4年後ようやく徳山藩として再興された。

毛利家 家系図
●街道見どころ案内  
 周南市櫛ヶ浜〜新南陽まで  約8km 

早乙女坂(さおとめさか)
JR櫛ヶ浜駅から旧2号線の桜木交差点へ。 北側の坂道に入る。この坂道を上がった所が白見ヶ森で、久米村と遠石村との境であった。ここから下る坂道は早乙女坂と呼ばれている。早乙女坂の由来は、江戸時代に街道を通る若い飛脚が、地元女性の評判となり、ちょうど田植え時にここを通りかかった飛脚を、早乙女たちが取り囲んだところ、突然懐の短刀を抜いて彼女らに斬りつけたことから名付けられたといわれている。

一説には、地元には「早苗打ち」という風習があり、田植え時縁起をかついで道行く人に早苗を投げかけ祝儀を貰う習慣があり、それを知らない飛脚に斬られてしまったともいわれている。

死亡した早乙女の供養費が、遠石八幡宮東側の千日寺
境内に立てられている。

遠石(といし)八幡宮
推古天皇の時代に宇佐八幡宮の分霊を祀り、和銅元年(708)の社殿を造営した。

江戸時代は徳山毛利家の氏神として代々敬われた。

祭礼には瀬戸内海の島々からも参拝者が訪れ、市や芝居小屋も立ち賑わった。 

洪鐘(こうしょう)
二の鳥居付近の鐘楼には洪鐘(こうしょう)一口が保管されている。元暦元年(1184)、源平合戦の際、平家を追って山陽道を西下してきた源範頼が遠石(といし)庄で平氏方と武力衝突した。この時遠石八幡宮の洪鐘が流れ矢によって破損し、後に鎌倉末期になって鋳直したものと思われる。
元応2年(1320)12月2日の銘がある。

遠石(といし)

遠石は山陽道の宿場町で約百軒の民家が軒を連ねていた。

街道の面影  老舗の福原醤油。

影向岩(えいこういわ)
遠石八幡宮を出て、西に進むと右側に大きな岩が置かれている。説明文には「推古天皇30年(622)春の夜、豊前より宇佐八幡大神が神馬に跨り此の地の磯浜に降臨された。
その時神風静まり光明と伴に忽然と現れた大石に降り立たれ、吾は八幡大神なり、この地に跡を垂れて国民を守らんため、今ここに現れる。嗚呼遠し」と神託されたとある。

この石が遠石の地名の由来といわれる。
石の上には蹄の跡が残っているといわれている。

念仏坂一里塚跡
浄土真宗宝生寺に沿って細い坂道を登る。この坂が山陽道の一部で念仏坂と呼ばれている。

「行程記」には念仏坂の北側に一里山を描き、小瀬川より11里、赤間関25里と書く。

さすりぼとけの碑
道路の分岐点の安全地帯にさすり仏の碑がある。
仏の由来は、江戸時代に毛利氏を探っていた隠密を藩士が見つけて殺したので、村人がそのたたりを恐れて墓を作ったものだとという。行き倒れ人の墓だともいわれ諸説があるが、その後、通りかかった旅人が石をさすったら、脚の疲れが治って評判になった。難病を避ける力があるとの噂が流れ、大勢の訪れたため、徳山藩は昼夜番人を置いて警備したとのことである。

徳山藩主の墓(大成寺)
徳山藩主の菩提寺である大成寺墓地には、初代藩主就隆(なりたか)をはじめ50基余の墓碑が並ぶ。中でも就隆と側室銀(三代元次の母)の墓は、花崗岩製の笠付きで、高さ4m、方形造、唐波風付きの覆屋で囲まれた立派な墓である。

「徳山藩に過ぎたるもの三つ、藩主墓所と桜の馬場に奈古屋里人」と謡われた。 

初代の就隆から徳山毛利9代元蕃 一族の墓

徳山城下町
寛永15年(1638)初代徳山藩主毛利就隆(なりたか)は、初め居館を下松においたが、慶安2年(1650)に野上村に移しこの地を徳山と命名した。旧山陽道と海浜を南に臨む金剛山の山麓の高台に館を建てた。城の構えはなく「御館」といったが、天保7年(1836)に城主格を認可され、御邸「御城」と呼ぶようになった。桜馬場から北に家中藩士の屋敷割りを行い、桜馬場から南に町屋敷を置いた。徳山毛利4万石の城下町である。

旧山陽道は南の本町筋を東西に通り、現在の徳山駅周辺
に御茶屋や目代所、高札場が置かれていた。

野上町 
駅から450m北西移転した
「清水旅館」はかつて本陣を兼ねた御茶屋だった本陣跡は大正時代まで駅前近くにあった 

浦山一里塚跡
新幹線のトンネルの横から延びる旧山陽道は、周南バイパス(国道2号線)と旧2号線にはさまれた6m幅の生活道となっている。

このあたりに小瀬川から12里にあたる一里塚があった。

      

この街道一帯に街道松が立ち並び風致を添えていたが、今は民家の石垣に枯根が残るのみである。

川崎観音堂
「当国十八番 影清護身観音」の道標から右に折れ、バイパスをくぐり観音堂に登る。屋島の戦いに敗れた平家一門が九州に向かう途中、軍船が徳山沖の黒髪島沖付近で暴風雨に会い数日間島影にに避難した。その夜、観音菩薩が平景清という豪勇無双の武士の夢枕に立ち、「われを向うの山にあるお寺に安ぜよ」とのお告げがあり、翌朝、平景清が同じ光景のお寺に、自分の守り本尊の十一面観音を安置すると風雨は収まった。爾来、この観音を念ずれば必ずご利益があるといわれ、特に安産、眼病、肢体不自由に霊験がある。12年に一度(子年)開扉される。

音羽橋(川崎橋)
富田橋に架かる川崎橋は12間あった。石橋に架け替えられたが、何度も洪水で流失している。この川崎橋は徳山城下への入り口として旧山陽道のポイントの一つであった。また、冨田川そのものも城の外濠的な役割を果たしていた。橋の東詰めに関門があり、役人を置いていた。この辺りまで海が入り込み、海上航行の船もここの常夜燈を目標にしていた。

政所(まんどころ)この地は、中世は富田市と呼ばれ、近隣の物資集散の中心地であった。この時代は富田川は今より西よりを流れ、古市の港に達していた。港は上方へ荷を積み出す重要な港で、東大寺の年貢米もこの富田の津から船で運ばれた。年貢米銭を管理する役所が置かれ、政所と呼ばれていた。