
| 2008.1.1 |
本文・地図・写真 |
コース概要 西国街道、周防の国、萩藩では、山陽道と呼んでいる。 周防の国、福川周辺は瀬戸内海に面し、平地も広がりを持っており、肥沃な地域であった。また、遠浅の海が広がっており、海産物の恵まれている。 室町から、地域の拠点としての若山城は大内氏の重臣であった陶氏歴代の居城で、自然の地形を利用して築いた大規模な山城である。当地域を治めていた。築城は二代の陶弘政といわれ(七代の陶弘護との説あり)約450mにわたって続く連郭式城郭で典型的な中世山城の形態であったという。 堅牢を誇ったこの城も、弘治元年(1555)10月、厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就に敗れた直後、毛利方の杉重輔に攻められ落城した。陶長房(陶晴賢の子)は長穂龍文寺に落ちた後自決した。 遠浅であったため、干拓は容易で、ほぼ街道より南は埋め立てられたものと思われる。 |
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JR山陽本線新南陽駅に10時00分集合、参加人数は、44人、少し寒くなりましたが、歩くにはちょうど良い季候でした。前回の続きを歩くこととし、西へ、戸田方面に歩き始めました。このたびの説明者は、中川さんに案内、説明をお願いしました。
勝栄寺、毛利元就も立ち寄ったという、ここで、三子教訓状をしたためている。現地には、大きな土塁が築かれており、中世の豪族の館の遺構があった。手洗い鉢の水は、いぼが治るという。やってみた人がいたがどうだったでしょうか。 |
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勝栄寺 |
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浄土宗 浄真寺 弘治元年(1555)の開創と伝わる。本尊は木造の阿弥陀如来立像。墓所にマンダラ碑と一石五輪塔がある。マンダラ碑は付近の田の石垣に使われていたものを発見して、昭和55年にこの寺に移した。「胎蔵界中台ハ葉院曼荼羅」といわれるもので、鎌倉中期のものと推測される。また、一石五輪塔も同じ場所にあり、一つの岩から彫り出した高さ79cmの五輪塔で鎌倉中期頃のものと考えられている。 写真は一石五輪塔 (Photo:中川 正) |
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山崎八幡宮 |
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平野町 「平野」は古代山陽道の周防5番目の駅であった。駅馬も20疋と記されている。中世の頃から古市と同様に平野の港も著名であった。「平野」は古墳時代は平野石、中世の頃は石仏、近世から近代は瓦というように石とともに歩んできた市であった。最近まで「富田かわら」の製造が盛んで、多くの「瓦屋」が並び、平野港から遠くは長崎方面へ積み出されていた。 (Photo:中川 正) |
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曹洞宗 祥雲寺 正保2年(1645)村民の願いにより一庵を建てたのがはじまりである。山門の横にちいさな石仏が並んでいる。天保時代、藩の四白政策に基づき開作事業が盛んであった。この地域も道源開作として進められたが、最後の潮止め工事がどうしても成功しなかった。「人柱」を立てて、海神の怒りを鎮めることとして、若い娘の中から「おまつ」が選ばれ、尊い犠牲となって間作は成功した。健気な娘の心根に人々は墓を立て、水神様として祀り、道源開作の守り神として供養している。祥雲寺の道源家の墓地に「おまつ」の地蔵墓がある。その後、いく度かの大津波も「おまつ」が守り、この開作は崩れなかったという。 (Photo:中川 正) |
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曹洞宗 真福寺 建咲院の末寺にあたり、本堂は弘化4年(1847)に再建された。山門入り口の耳を押さえた地蔵は「しあわせ地蔵」と名づけられた耳地蔵で元禄年間(1688−1704)の作といわれる。墓地には鎌倉時代後期の乾元2年(1303)銘の板碑などが置かれている。 (Photo:中川 正) |
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福川 (ふくがわ) 本陣跡(本陣門) |
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御姫開作 寛永年間、福川の海岸の開作も進み、寛永12年(1672)に夜市川の南の御姫開作(羽島間作)が開かれた。夜市川に沿った上手も当時のもので、徳山藩主の直営間作であったという。他の民間の開作より強因に築かれ、その資金はお姫様の内証金だといわれ、この開作に通ずる橋を御姫橋、上手を御姫土手と呼んでいた。 写真は御姫橋 (Photo:中川 正) |
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若山城址 |
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夜市(やじ)一里塚跡 |
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| 矢地市 JR戸田駅の手前で右折し、山陽本線戸田踏切をわたり、国道二号線も横断して矢地市に直進する。矢地の村名は、山王社の普請のときに掘り出された矢根によるが、矢地は土地を失うに似ていると忌避して、弥地あるいは夜市の字をあてるようになったといわれる。矢地は、白壁の大きな民家が連なっている。 |