
| 2009.2.15 |
制作:中川 正 |
| 1月17日(土) 厳寒の最中であったが、先日来の寒気もウオーキング当日は和らぎ、快適な終日を過ごせた。 山陽本線戸田(へた)駅前に集合。約500m北上して、前回切り上げた「矢地市」のはずれに出る。ここから西に向かって旧山陽道( 西国街道)を歩き始める。 コースの概要 夜市川沿いに遡上してきた街道は、山陽本線戸田駅の東で北上し、周南市夜市から戸田へと赤坂峠を進む。峠を越えれば戸田の市。夜市川沿いに出来た盆地で古くからの家並みが多い。享保の飢饉をはじめ、何度も飢饉に襲われた哀しい話が残る。 戸田市を過ぎると、椿峠への登り道が延々と続く。決してきつい坂ではないが、椿峠の頂上まで2km。のんびりと、ゆっくりと進む。頂上は国道二号線。車がびゅんびょん行き交う。歩いている人は見かけない。鉄道もバスもないこの道を車に乗らないで歩いているのはわれわれだけだ。周南市と防府市の境に昔の郡境碑を見上げる。 椿峠を下って石原まで歩くと、遠くに富海の海がきらきら光って見える。三方が山に囲まれ、南だけが開けたこの地は温暖で年中花が咲き乱れていると聞く。 富海の町は漁業の町。幕末の志士を飛船という漁船であちこちに運んだ。 富海宿の西はずれにある富海駅から乗車して、広島方面と小郡方面とに分かれて帰途についた。 |

| ●街道見どころ案内 |
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赤坂峠 矢地の集落の西の端から始まる、夜市と戸田との間の峠である。登り500mの峠道は結構きつい。 峠の頂上には、周南市の西徳山総合グランドがある。 峠を下りきる手前に、駕籠立場があったと伝えられているが、現在は何も痕跡なし。 |
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船山神社 建保四年(1216)京都祇園社を勧請し祇園社と呼ばれていた。この敷地は南北にやや長い船形の平地山であったため舟山と呼ばれていたが、南側を売却され、2/3の広さになっている。 土地を売却した資金で神殿を建て直したとか。 |
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船山神社のイカリ石 「地下上申」に「この船山の縁をもって、戸田村のへの字は、船の舮(とも)を使い、舮田村と書いたが、いつしか戸田と唱えるようになった」とある。 社殿の前にイカリ石が1個現存している。なお、「中国行程記」には4個書き込まれている。 |
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光西寺 創建は天正五年(1577)で、北部の菅原の集落より移転してきたという。 江戸時代には寺内に小休所があったという。自紋に梅鉢がついている。住職の姓は菅原さんとあった。 享保十七,十八年(1732.33)イナゴによる虫害で、二年続きの大飢饉が発生した。住職は餓死者を弔う供養塔を湯野への街道脇に建てた。 |
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戸田市の宮島様 戸田市の中央、桜田八幡の参道口に鯛を抱えた恵比寿様が祀られている。何故か「宮島様」と呼ばれている。「御国廻り行程記」には「弁財天」とある。 宮島様の向かいには戊辰戦争の凱旋記念碑が建つ。この村から遠く東北地方にまで進軍した若者が、無事凱旋したことを氏神様に感謝して建てたことを記す。 |
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戸田市 戸田市は白壁の土蔵造りや格子窓の家が点在して、往時の面影を良く残している。 宮島様のところから、西へ400m、夜市川に架かる柳橋までが戸田の市である。途中の心光寺には千体観音が祀られている。 夜市川はここで北へと離れ、お別れである。 |
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辻地蔵 柳橋の袂の辻地蔵は汗かき地蔵といわれている。享保年間にここに設置されたが、天明五年(1785)に御尊体が震えて、大量の汗をかき、火災の難を知らせたので、村人は避難して難を逃れたとの話が伝えられている。
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山田家旧宅跡 柳橋から150m進むと国道二号線に合流する。合流地点の右側に古い土塀に囲まれた山田家旧宅がある。屋敷内には樅の大木などが茂り、荒れてはいるが旧家の趣を今なお残したお屋敷である。 山田家は慶長の頃、小早川隆景の家臣であったが、のちに湯野の邑主となった堅田家の家臣として仕えた。 以前は建坪82坪、15室の平屋建てで、室町時代の武家屋敷の趣を持つといわれたが、6割を徳山に移築復元し、その後堅田家ゆかりの湯野に移築復元して現在は空家で何も残っていない。 藩政時代,毛利藩は街道の要所に物見の役を配置したといわれているが、山田家もその役を果たしていたと思える。多くの文人、墨客が戸田村を通るとき、山田家に立ち寄ったといわれている。 |
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椿峠への道 戸田山一里塚跡 山田家跡から国道二号線の歩道をのぼって行く。高速道路の下をくぐってすぐ右側の道が旧山陽道( 西国街道)である。 国道の少し北側の街道を並行してゆっくりとのぼって行く。途中、魚切橋を渡って60mのところに一里塚があったとの記録はあるが、確認できない。1.2kmくらいで椿峠の頂上に到達、国道と合流する。 椿峠は大内氏の時代、旅人の旅情を慰めるため、陶氏に命じて椿を並木として植えさせたことから「椿峠」と呼んだと伝えられる。 頂上には現代の茶店のドライブインが何軒かある。椿峠南の四郎谷の生まれという「天野屋利兵衛」のドライブインは、昨年末に閉業してしまった。 (写真は一里塚跡の付近) |
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椿峠の郡境の碑 峠の頂上の左手の小高い道に「従是東都濃郡、 従是西佐波郡」の碑が建っている。 嘉永六年(1853)に再建されたと刻まれている。周南市と防府市との境界である。
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富海の海が見えた 椿峠を下って石原部落まで歩いてくると、正面に富海の海がきらきら光って見える。福川で海岸線から離れ、峠越えをして来た目には、とてもまぶしく映る。 石原部落は南が開けて、三方は山に囲まれているため冬でも暖かく感じられる。夏には蛍の飛び交う里にしたいと地域ぐるみの取り組みが行われている。 |
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起り(むくり)屋根の家 内側にカーブをえがく、起り(むくり)屋根の古い民家があった。建物は百年以上経過したような大きな造り酒屋の家である。今も「白菊」と書かれた煙突だけが空高く聳えている。 起こり屋根は江戸末期から明治の初めにかけて京都方面で流行したといわれているが、 西国街道を歩いていると、時々お目にかかることが出来る。 |
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250年前のお地蔵さまは見てござる 近くの路傍に、明和二年(1765)の銘のあるお地蔵さまが祀られていた。 ただ黙って、250年の世の移ろいを眺めていらっしゃる。今の世相に何を感じておられることやら。 (地蔵堂の右後方に「白菊」の煙突がよく見える) |
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円通寺 毛利の家臣、児玉元久が浄土真宗に帰依して、椿峠に一宇を建立したのが始まりで、延宝年間(1673-80)に現在地に移った。 長州戦争の際は、長州軍の陣屋が置かれた。 |
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富海の本陣 富海の宿は宿駅の規模がやや小さく、半宿(間宿)であった。宿馬は15匹置かれていた。 大規模の宿泊は福川宿あるいは防府の宮市宿で行われ、富海では大名行列の休憩や幕府役人などの小規模の宿泊に利用された。 本陣の向かいに天下送り御番所があった。 本陣の手前に「当国二十番滝谷寺道」の道標が立つが、この先には大阪の陣にあたり、大阪城に入り豊臣秀頼を援けた内藤元盛の嫡子元珍が、輝元の命により自刃させられた滝谷寺がある。 |
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飛船問屋 大和屋政助 富海は古くからの漁港であった。「いさば船」と呼ばれる大型漁船は近海への貨物輸送や小商いもし、宮島や広島通いもしていた。安永の頃(1772-)には漁船が発展して飛船(とびぶね)となり、大阪への往来や瀬戸内各所を行き来した。藩の役人もこの飛船を利用した。ことに幕末の志士たちの活動に飛船が多く用いられた。 飛船問屋の大和屋政助は大和挙兵に失敗した中山忠光卿を大阪から飛船で連れ帰り匿ったのをはじめ、保守派に追われた高杉晋作を暴風雨の中、飛船で下関まで送ったといわれる。 (写真 一階から船の出入りが出来たという。前面は海) |
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伊藤博文・井上馨の上陸の碑 連合艦隊の下関攻撃を知り、急遽英国留学を中断して帰国した二人は飛船問屋に身を寄せ、戦いの収拾に尽力した。 |
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大和屋政助の墓 富海一里塚跡 富海駅前の墓地に、街道に面して墓碑が立っている。品川弥次郎の揮毫である。 この墓地の西の端に富海一里塚があり、文政年間(1818-30)まで残存していたといわれるが現在は何もない。赤間関に20里、小瀬川から16里の塚であった。 海に島影がないことから昔の人が外海と間違えたという。外の海から富海(とのみ)という地名がついたとの話も聞いたが、真偽の程は定かでない。 |
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| 戸田ー富海間 街道案内 終り |
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