四辻
(よつつじ)〜小郡〜嘉川(かがわ)
 

2010.3.26 小泉 彰 制作
本文・地図・写真

                 
平成22年1月23日(土)10時30分〜16時15分 
参加人数は52人。途中、小雪がちらつく寒い一日でしたが頑張って歩きました。
JR四辻駅を出発、周防鋳銭司跡を訪ね、春日神社にお参り、陶市の街並み、正護寺 昼食 スタンプ押印
全体写真撮影、妙湛寺を訪れ、小郡宿、嘉川市の街並み、たくさんの歴史解説楽しみました。
JR嘉川駅で解散しました。

  ●街道見どころ案内  
 四辻(よつつじ)〜小郡(おごおり) 〜嘉川(かがわ)まで約10km


JR四辻駅
10時30分 集合 説明聞きます

 

 
一つ橋の地蔵さん 
顕考院道 刻まれています。

 

周防鋳銭司(すおうすせんじ)跡
高橋川にかかる橋を渡ると、道の両側に四辻の家並みが続く。家並みの途切れた辺りから北に向かうと国指定史跡の周防鋳銭司跡があります。平安時代の天長4年(827)に周防鋳銭司が設置されてから約150年間鋳銭司で貨幣を鋳造してきました。当初は陶の正護寺前に置かれていたが、承和14年(847)この地に移転しています。奈良時代に中国から貨幣制度を取り入れ、近江、河内、山城、長門、周防などに鋳銭司が設置されました。平安時代になると長門、周防が主となり、9世紀中頃からは周防鋳銭司のみとなりました。しかし、天慶3年(940)藤原純友が周防に乱入し、鋳銭司は襲撃を受けた。やがて復活しましたが、
寛和年間(985〜89)以後まもなく廃絶しました。

春日神社
旧山陽道から北に真直ぐ、国道を渡って長い参道が延びています。春日神社は和銅元年(708)に藤原不比等が創建したとも、延歴4年(785)に奈良の春日神社から遷座したと伝えられる古社で、鋳銭司の総社でした。祭神は軍神として昔から武士の信仰を集めていました。足利尊氏が西国に逃れ、再挙を図った時、弟の直義を使いとして太刀一振りを納め武運の回復を祈願したといわれています。なお、
拝殿には「鋳銭司古図」の絵馬があります。


謎の建石  陶立石一里塚跡
春日大社に延びる参道の鳥居の横に、平らな岩が建っています。ここに古くからあるらしく、「行程記」にも「平岩と云う。古来よりこの所にあり、古老の伝に、昔、仟佰(せんぱく)の傍示に位置しと伝えり」と紹介しています。高さ1.5mの石ですが、何のために建てられたかは不明です。また、この付近に一里塚がありました。


    

小瀬から21里、赤間関から15里の一里塚であり、ここの地名を立石という。

 浄土真宗 円覚寺
旧山陽道は円覚寺に沿ってくるりと廻り西に延びます。
円覚寺はかっては真言宗の霊場で大内氏の祈願所でしたが、大内氏の没落後廃退した。その後大内家臣の八木主膳が再興し真宗の道場としました。

陶市
陶の名は、古代この地で須恵器を製造したことによるといわれ、北方の山麓には、陶窯遺跡がありました。この地に良質の陶土があり、近代にいたるまで続けられました。中世、大内氏の支流右田弘賢はこの地を領し、居館を定めて陶氏を称した。陶市には宿場はなかったが、天下送りの継ぎ場が置かれ、宿馬10疋が置かれたと記録にあります。上市と下市にはそれぞれ市恵比寿が祀られています。

上市には朱塗りの社殿に恵比寿様が祀られています。

下市の恵比寿は、西に下って橋本橋の西側に祀られています。

 艫綱(ともづな)の森
陶市のはずれの高台に石碑や石祠など並んであり、「艫綱の森」と呼ばれています。百済の皇子琳聖太子が推古天皇19年(611)にこの地に上陸されたと伝えられており、寄宮神社として祀られてきました。以前は200m南の国道の傍らにあったが、国道工事のため、この地に移設されました。太子は陶の土がやきものに適しているのに気付き村人に土器の製法を教えられたといわれています。

街道から北へ600m行きます。

臨済宗 正護寺 
延文年間(1356−61)に陶氏二代目の陶弘政が建立しました。居館もこの寺の前面にひろがっていたらしく、寺は城内の祈願所として創建されました。永禄12年(1569)に大内輝弘の兵火により焼失、江戸時代に館跡に再建されました。境内には陶弘政の宝篋(ほうきょう)印塔や陶晴賢の分骨を収めた墓があります。また、寺院内に平安初期の木造薬師如来像あります。

200m歩き、右側に日吉神社あります。

藁ぶきの屋根ありました。 

2号線 バス停「西陶」通り過ぎ 左側には名田島の開作した穀倉地帯あります。

小郡一里塚跡
小瀬川より22里 赤間関より14里

山陽新幹線の高架下辺りが陶と小郡の境で、椹野(ふしの)川に架かる東津橋の手前に一里塚があります。

東津橋の東詰めの街道から北へ600mほど寄り道します。
 妙湛寺
応永の乱で大内義弘を破った足利義満は、大内氏から和泉、紀伊、石見、豊前を取り上げ、末弟の弘茂に周防・長門の守護を安堵した。次弟の盛見(もりはる)はこの相続に反対で、兄弟の争いとなり、盛見が長門・周防をてにしていた弘茂を打ち破ったが、長兄の義弘の嫡男持世(ももよ)はまだ幼かったので、自らが大内氏を相続した。盛見にも豊久丸という子があったが、後年豊久丸が成人し、兄の遺児持世と跡を争う心配があり、我が子豊久丸を蛍狩りに誘い鰐石川(椹野川)で船から突き落とし水死させてしまった。
盛見はその屍が止まったところに一寺(妙湛寺)を建て豊久丸を葬った。

街道にもどり

東津橋 

小郡宿に入ります。

東津の街並み

東津の街並みです

JR山口線踏切渡り街道を歩きます

 小郡お茶屋(脇本陣)
小郡の本陣は津市に三原屋本陣があったが、小郡を通る大名は東津町の脇本陣のお茶屋を多く利用したという。お茶屋はもともと藩主の小邸でありましたが、藩主はあまり利用しなかった。年代を重ねたクスノキが当時をものがたっています。北隅に勘場(代官所)が置かれていました。

山口道と分岐点の道標
西に行くと十字路があります。古くは三叉路で山陽道と山口道との分岐点で、右角に道標があります。

三原屋本陣
旧山陽道と国道9号線の交差点の西南の角に「三原屋本陣」がありました。文久3年(1863)この本陣に滞在していた幕府の詰問使が襲われた。下関での外国船砲撃の件で、幕府は軍艦朝陽丸を下関に急航し、奇兵隊を詰問したが、奇兵隊は朝陽丸を奪ってしまいました。詰問使は小郡に上陸し三原屋で藩主に面会を求めて待機していた。これを聞きつけた過激隊士が三原屋を襲い、従者3名を殺害しました。詰問使らは逃れて海に去ったが、中の関沖合の船中で再度襲われ殺害された。後の長州征伐の要因ともなりました。(三原屋事件)

国道9号線の手前に

粟島神社

国道9号線 地下道くぐり
県道335号江崎陶線沿いを歩きます。

小郡柏崎の交差点わたり
JR山陽本線左に見て500m歩きます。

踏切は複線の山陽本線 単線の宇部線 越えます。

左に見える山

雨乞山(160m)

荒神峠一里塚跡 
上嘉川でゆるい登りの荒神峠に行きます。
左側の林の中にもと荒神の小社があったという。
大正14年に宇部線を開設する際掘り下げた上に橋をかけました。この辺りに一里塚がありました。
目印はありません。 

嘉川(かがわ)市
嘉川は古代山陽道の駅家で「賀宝(かがほ)駅」とされ、東は八千(鋳銭司)に西は阿潭(宇部市阿東)とつながっています。江戸時代は半宿で宿馬10匹、家数70余軒あったと記録する。今川了俊も応安4年(1371)に九州下向の途次、嘉川に宿泊しています。
「道ゆきぶり」に「今夜は香河とかや申所にとどまりぬ。竹の一村侍る。みこしに島のちかちか見えたるを、このさと人にとへば梅が崎といふ」とあります。

 恵比須神社

地蔵さん 
公民館前にあります。

 

JR嘉川駅

16時15分 解散しました。