山口市嘉川
(かがわ)〜宇部市厚東(ことう)
 

2010.5.27 中川 正 制作
本文・地図・写真

 2010年3月27日

JR嘉川駅から、周防・長門国境の割木松の峠を越して、JR厚東駅までの総行程は約16kmあまり、山陽本線から遠くはなれ、バスの便もないことから、当初は少し心配していました。
 しかし、お天気にも恵まれ、予定した時間より早く厚東駅に全員元気で到着しました。
 もう一つ気がかりだった、宇部市瓜生野から吉見に抜ける通称「どんだけ峠」は、長い間荒れた道で通れなかった道でしたが、地元の皆さんの整備のおかげで、快適に歩くことができました。
 
 全体を通じて、国道2号線を7回横断することになりました。左右に何もない場所で、横断歩道もなく、やむなく疾走する車に注意しながらのやや危険な横断でした。細心の要注意が必要で、皆で協力しあいながら無事行ったり来たりしました。
 また、このルートは途中にトイレがなく困りました。上山中を過ぎ、下山中に入る手前の国道筋の「つるや食堂」で、こころよくトイレを貸していただき助かりました。感謝。

 本日のぶらり旅で安芸、備後、周防の三国を踏破することができました。

   



街道の見どころ 案内

JR嘉川(かがわ)駅出発

 山陽本線嘉川駅で下車。
 宇部線の上嘉川駅は約1km北東に当たる。
嘉川の街道

 JR嘉川駅から西に向かって歩く。
 幸ノ橋(こうのえばし)の手前に小さな道標がみえる。
宇部方面への道標

 道標には「あしす、とこなみ、中の村」と刻まれている。
 旧山陽道(西国街道)から阿知須、床波を経て宇部方面に向かう海岸道り道の分岐点である。
熊野神社

 明治40年、神社合併が行われ、この地域の神社はほとんど嘉川八幡宮に合祀された。その中で、この神社だけは資本金を集めて法人の資格を取得して残存した。
 
 鎌倉時代までは、逆に嘉川八幡宮がこの場所にあったと伝えられている。
割木松峠の茶店

 長い割木松峠の国道横を上って行くと、頂上に
「おいはぎ峠」という物騒な名前がついたレストランがある。
 
 現在は国道2号線が通っているが、かつては山中深く、険しい街道であったといわれる。
       
 この前後5kmの間には他に食堂、トイレがない。

  
長門・周防国境の碑

 食堂敷地の西隅に国境碑が立つ。
 江戸時代の国境碑で「東周防国 吉敷郡」「西長門国 厚狭郡」と刻まれている。

 割木松峠の少し手前に一里塚があったといわれている。(現在は何もなし)


 「割木松」とは、「昔、ここで境目の争論が起こり防長の境にあった松を、両国の農民が争って切り取ったための地名である」といわれている。
安芸、備後、長門の三国踏破記念

 2000年に会を発足して10年かけて、三国を歩きました。
 
 平成22年3月27日 西国街道ぶらり旅の会の
看板を国境碑の横に立てた。江角さん手作りの作品。(上記写真の国境碑の左側) 
甲山川沿いの道

二の瀬橋を渡り、国道に出てしばらく進むと、国道が甲山川を横断する。街道はその地点から右手の山麓を甲山川沿いに迂回しながら進む。
 この道は甲山川の洪水を避けて設けられたといわれている。古道は現在の国道のルートであったという。
上山中 宿場町

 山中宿は上山中と下山中に分かれている。両市は約1km隔たっているが、合わせて人家90軒の宿場町であった。

 山中市は永和4年(1378)伊豆の住人伊藤彦四郎が開いたといわれている。甲山市とも河山市ともいう。江戸時代山中宿は「半宿」であった。上市の本陣は専念寺(廃寺)にあった。
熊野神社

 上山中の街道筋にある。
 伊藤彦四郎が応永元年(1394)に和歌山から熊野権現を勧請した。
 熊野神社では日参様という行事が200年前から続いている。火事が起こらぬよう、人々の争いがないようにと毎日当屋(当番の家)をきめて、境内の常夜燈に明かりを灯し、地区の人々の安全と健康を祈願している。 
天然記念物 ツルマンリョウ

 社殿の西の斜面に自生するツルマンリョウは県の天然記念物に指定されている。
 中国大陸南部や台湾に生育し、わが国ではその分布が限定されていて、屋久島、山口県、奈良県でまれに見られる植物である。
下山中薬師堂

 「専念寺由来書」に医王山西福寺とあり、大内隆弘が眼病平癒を祈願して建立したといわれる。
 
 本尊の薬師如来は、古くは12年毎の開帳であったが、幕末から20年毎の開帳となり、現在まで続いている。
大内菱

 厨子には大内氏の紋である大内菱がついている。
 
下山中本陣跡

 本陣跡はコンクリート建の民家である。家の前に木製の標識が立っている。

 名護屋に滞在していた豊臣秀吉が、大政所(母)の病を聞いて急ぎ帰京するが、その途中、山中の宿で大政所他界の注進が到着し、これを聞いた秀吉は深く嘆いたという。

 
与助の首

 山中本陣から約600m付近に山中一里塚があったといわれるが、現在は何もない。

 一里塚跡の少し西に「与助の首」と呼ばれている場所がある。
 
 国道脇に、「与助の首」と書いた白い木柱が立てられている。
 与助は天保2年(1831)の一揆の時、この地方で最も活動した一人で、後に捕えられ萩で斬首され、この場所に梟首された人物である。一揆は大阪市場に送る三斗俵の人足米の支給をめぐって、村役人に対する疑義が生じたものだった。木田村の庄屋を打ち壊し、他の村にも波及した。
駒の頭(こまのかしら)

 厚東川の西岸の木田地区は、厚東川の水位より土地が高いため、川から水を引けず荒地であった。
正平年間(1346〜70)に島津家の家臣藤本五左衛門がサイホンの原理を応用した施設を作り、川底に木管を引いて甲山川の水(車地)を木田地区に通水することに成功した。
 藤本五左衛門は厚東川の東を流れる甲山川の水位が木田地区より数メートル高いのに目をつけ、甲山川から水を引き、厚東川の左岸で一気に地下5mの深さまで水を落とし、川底に敷設した木管を通じて、右岸の木田地区の用水路に噴出させる方式をとった。
 (上の写真はその原理の図)
 川底の管は、初めは松の木をくり抜いて合わせて用いた。明治36年からは土管、昭和30年代からはコンクリート管に代わっているが、原理はそのまま、今も利用されており、木田地区に立派な美田が作られている。
 
 写真下は車地側の甲山川の水を落とし込む取水口である。

 なお、駒の頭とは、昔、筧(かけひ)の先に付けて噴射式にものを冷やす道具を「駒の頭」と呼んでいたが、これに似ているのでその名がついたといわれている。 
どんだけ道(殿様道) その1

 瓜生野の辻堂から春日への峠道はどんだけ道とか殿様堂とか呼ばれている約1kmの山道である。
 瓜生野公民館の横から旧道に入る。

 大歳社の前から急坂を200m上ると、峠の頂上につく。右手に電力会社の変電所がある。
どんだけ道(殿様道) その2

 変電所の横を直進する。入口に鉄線が引かれている。(鉄線をくぐって中にはいる)

 以前はここから先が雑木、雑草が繁茂し通行が不能な場所であった。私も10年前一度通っただけで、その後は通れなかった。(無理やり通る元気が出なかった。多くの人を寄せ付けない個所であった)
 今年になって地元の方々が木を切り、草を刈って道の整備をされ、立派な峠道が開通した。
どんだけ道(殿様道) その3

 下り道は狭い道であるが、しっかりとした道で、快適に歩くことができる。

 この峠は玉木坂とも呼ばれているが、享保11年頃(1726)舟木宰判の代官玉木太郎左衛門がこの道を改修して山陽道の本道としたことに由来している。 それまでは山裾を厚東川筋を迂回する道があったが、川幅が狭く氾濫を繰り返し、交通の難所であったので、この峠道を開いたといわれる。
春日一里塚跡

 どんだけ道を下り、大坪川に向かって直進すると橋の架かっている付近に一里塚があったといわれるが、場所は特定できない。
JR厚東(ことう)駅

 全員元気よく到着。解散。