出雲石見街道を行く
  広島市〜可部間を紹介

2006.3.8 地図・写真:山根 政則
解 説: 佐々木 卓也

このホームページは広島市を中心に、西国街道〈西は山口県東部まで、東は岡山県西部まで〉 を踏破することを目的に開設しました。広島市より北に延びる出雲石見街道も、多くの市民に親しまれておりますので、西国街道の広島城下の堺町から北に、私たちは一路可部宿を目指し二日に分けて歩きました。そういう経緯で、本編は[西国街道を行く:脇街道編]として纏めました。
出雲街道・石見街道とは?
広島城下を基点とする出雲石見街道(通称:雲石路)は、出雲大社への参詣道であり、やがて松江城下に繋がる道と、石見大森銀山への運搬路として、やがて浜田城下を結ぶ道とが重なり、可部宿まで通っていました。可部宿北からは出雲街道は上根峠を、石見街道は可部峠を越える難所の連続する街道で、平坦地では幅員が7尺(2m余)で西国街道の脇往還でした。萩城下へ転封された毛利家は、元就公の墓参に利用し吉田郡山へ向かう「吉田往還」でもありました。



 第1日 広島市堺町1丁目〜安佐南区JR緑井駅まで

実施日:2004年8月22日

●街道見どころと交通注意


このコースは中世以来の集落をぬって通っており、今も神社仏閣は街道沿いに集中しています。

明治時代から広島から松江を結ぶ国道として整備され、国道54号線の旧道となり現在もバス路線として利用されています。道路の幅員も江戸時代のものもあり、歩道もない箇所も数多く歩行には十分に気をつけて下さい。

沿線はコンビニや商店も点在し気軽に歩ける歴史街道です。





























第1日 中区堺町1丁目からJR緑井駅まで  9km
堺町
出雲石見街道と西国街道の分岐点

西国街道に沿う堺町1丁目から北へ分岐する脇往還が、出雲石見街道(通称:雲石路)と呼ばれ可部宿に至っています。坪村家具店の前に、かつて「出雲大社道」と彫られた江戸末期の道標の石灯籠がありましたが、現在では道路拡幅のために、「空鞘稲生神社」の境内に移されました。
萩城下から歴代の藩主は吉田郡山へと向かい、元就公の墓参のために利用した重要な往還です。

十日市町の起こりは吉田郡山の十日市が移り、恵比須神社は旧西引御堂町に分祀されたのです。
空鞘稲生神社
(そらざやいなりじんじゃ)

むかし二人の侍がその技を競い、一人が剣を抜いて鞘を空高く投げ上げたところ、松の大木の枝に架かり「空鞘」の名前がついたとされます。祭神は正一位稲荷大明神で堺町・十日市町・寺町界隈の商家を氏子に持ち、広島三大祭りの夏の住吉祭りでは、住吉神社の御座船が当社の前の本川まで遡上します。かつては対岸の小姓町への渡し場があり、後に空鞘橋となりました。

広島城下建設当時は広瀬村と呼ばれ、元就公の菩提所の洞春寺=今の広瀬神社が置かれました。
寺町通り界隈
安佐南区の武田山の東麓に龍原の地があり、天台宗の古刹の仏護寺がありました。代々武田氏が法灯を守り、毛利氏による武田氏の滅亡後は旧打越村に移りました。福島正則は浄土真宗の安芸門徒の頂点として、現在の地に正式に鎮座させたのです。その配下の十二坊を併せて仏閣を集め、東の新川場地区とともに、西の「寺町」として雲石路に沿い、今も信仰が絶えません。

明治時代に仏護寺は正式に、浄土真宗本願寺広島別院となり、原爆投下で灰燼に帰しました。
横川橋からの眺め
旧太田川=本川から分岐する天満川は、広島別院の地先の北の鼻から西へ「横川」となります。

かつて雲石路が通る横川橋が架けられ、旧楠木村の南端には寺町への門前町として、横川町の 商家が建ち並びました。楠木村に上流からの木材の陸揚げ場として、「楠木大雁木」が造られ、本川筋一帯は太田川水運で栄えました。被爆後に対岸の小姓町一帯には、バラック造りの家々になりましたが、今は基町の高層アパート群に様変わりし、水辺は親水護岸に改修されました
横川胡子神社

天満川が本川と分流する地が横川で、横川橋の北詰東に横川胡子神社があり、かつて寺町への門前商店街の守護神としての信仰が続いています。江戸時代の末期に横川在住の商人が、繁栄を祈願し創建し胡子社としました。当地には子供たちの飛込み台があり、江能地区より海水を船で運び塩湯としていました。社殿は原爆投下で灰燼に帰し、昭和24年(1949)に地元の有志により再建されました。今は地区集会所に利用され、三篠神社の配下で例大祭も行われています。
三篠神社

『芸藩通志』には旧沼田郡楠木村「黒皇神社」が記され、承応3年(1654)に現在地に建立されました。大正3年(1914)に打越村の青木神社・八幡神社と新庄村の熊野神社を合祀し、社名を「三篠神社」としました。現在は天満宮となっており、原爆投下で倒壊し昭和23年(1948)年に再建されました。因みに三篠とは御篠で、太田川とその分流や支流により、笹の葉に覆われた篠地で、当地西部の三滝山あたりからの眺めは、正に三篠の流れの太田川と形容されています。
新庄の宮神社と天然記念物夫婦楠

旧沼田郡新庄村は古代の佐伯郡桑原郷を基に、中世以降は桑原新庄として拓かれました。鬱蒼とした社叢の新庄之宮神社は「熊野神社」ともいい、大正初期に橿原神社と稲荷社が合祀され現在地に再建されました。神社境内の夫婦楠は樹齢500年とも言われ、これにより原爆投下の爆風が防げたと言われています。昭和29年(1954)に広島県指定の天然記念物となり、同39年(1964)に国道54号線の拡幅工事で社叢の大半が消滅し、楠木・大宮の地名の起源となりました。







新庄橋と太田川放水路

かつての旧新庄橋は旧安川に架けられ、北詰には旧長束村の境界に一里塚がありました。上流、現在の祇園大橋北詰の東2町には「長束神社」があり、貞観12年(870)に同村の大年山に創建され、社名は明治6年(1873)に八幡宮から正式に長束神社となりました。昭和45年(1970)には、現在太田川放水路を臨む好立地から、「太田川総水神」と称し全流域の水神を統括しています。西部山麓に三滝寺観音堂が見られ、江戸時代に開削された「八木用水」の排水樋門が残っています。
芦田屋胡子神社

旧長束村には雲石路に沿い商家が点在し、広島市信用組合長束支所の手前にあります。社名は芦田屋胡子神社といい、当地に商家の芦田屋があり勧請したものかは不詳ですが、本来胡子社は街道に沿う商家が並ぶ市聚に置かれ、近在の農村から物売りが通い次第に集落ができました。
蓮光寺と県天然記念物長束の蓮華松

創建は弘安6年(1283)で、始めは天台宗で、明応5年(1496)には浄土真宗に改宗され、慶長4年(1599)からは蓮光寺と称しました。元は寺町にあり寛永7年(1630)に現在地に移設されました。

その際に記念として植えられた松が「蓮華松」で、県内でも有数の名木として知られ、黒松で樹高9m、目通り幹周り3.2m、四方の樹枝が12本で、東西26m、南北25mで300uに及ぶ大木となっています。それが理由で昭和29年(1954)に、広島県指定の天然記念物となりました。

いぼ地蔵

旧南下安村の雲石路に小高い二本の松が見え、その根元に小堂があり傍らに石灯籠があります。

堂の内部には約1mの長方形の石が安置され別名「投石地蔵」といい、昔に武田光和が武田山から石を投げたら地蔵となったといわれ、一説に神社の力石ともいわれています。ここにある松の葉で人にできたイボをつついたところ、それがとれきれいになり後に信仰がうまれました。
熊野神社

祭神は伊邪那岐命と伊邪那美命で、和歌山県の熊野速玉大社の御分霊を祀っています。本来は新宮神社で創建は天文年間(1532〜1555)で、16代銀山城主の武田光和によるものと思われています。神社境内の江戸末期の常夜灯の台座には杯状穴があり、神社前の屈曲する道筋は北の安神社まで続き遠見遮眼となり、武田氏が統治していた祇園の市町の本通りでもありました。
勝想寺

永禄元年(1558)に僧無庵により開基され、元禄7年(1694)に勝想寺となりました。『芸藩通志』では勝総寺となり、境内墓地には「八木用水」の生みの親の桑原卯之助の墓があります。熊野神社に行く街道筋に、呉服商として栄えた桑原家の旧家があり、当時の賑わいを連想させます。
安芸津彦神社

『芸藩通志』によると旧南下安村に「官幣社」を載せ、厳島神社兼帯七社の一つとしています。

元は青原にあったとされ、当地の地名は「帆立」といい、厳島神社の所有する北部山県郡内の荘園の倉敷地として、その積出港として中世より栄えました。武田氏の庇護の下で祭神は16で安芸国内の主要神で、明治5年(1872)には現在の社名となり、熊野・安の諸社と繋がります。
旧い商家

旧沼田郡南下安村の雲石路に沿い、武田氏統治の時代より栄え、安神社=祇園社を中核として周辺地域の通商の中心となりました。周辺農村からは農作物や加工品を始め、職工や商家など多くの人々が運ばれました。今でも旧街道に沿い、昭和のよろずやさんも往時を感じさせます。
恵比須神社

安神社の一の鳥居に前には「折目」と呼ばれる屈曲部があり、遠見遮眼となり祇園の市町の要となっています。折目の北に恵比須神社があり、安神社の摂社で通商の守護神となっています。

恵比須神社の北側の道路を隔てて、天明4年(1785)と刻まれた高さ5mの常夜灯があります。
安神社
始めは現在の祇園中学校付近の松尾山にあり、出雲国から須佐之男命の神を勧請し、祇園社として祀られました。正安元年(1299)の祭礼日に、厳島神社の平員家は銀山城を攻め、その時に社殿は焼かれました。当社の御旅所の現在地に御神体が移され、危うく難を逃れ武田・毛利・福島・浅野の各氏により崇拝されました。明治6年(1873)に郷社となり、同43年(1910)には再び大火に襲われ、大正5年(1916)に現在の社殿は再建されました。旧南下安村の中心に祇園の町ができ旧沼田郡の郡本=代官所となり、明治22年(1889)に周辺合併で祇園村ができました。
浄宗寺
 『芸藩通志』には「居民古市の者は専ら苧を製し」、また「麻縄、古市村より出す」と記され、江戸時代後期より「麻の古市」として、明治から大正にかけて全国的にその名は知られました。

煮扱屋が50軒、麻糸屋が13軒と、殆どが麻苧の関係者でした。竹林山浄宗寺は天正年間に僧浄具が開基となり、浄土真宗の古刹として江戸初期から、古市の門徒により崇敬されました。

また煮扱ぎの際の眼病治癒のために、大正9年(1920)に真言宗の古市薬師寺が建てられました。
久保山神社

 『芸藩通志』に「山王社同村にあり、境内恵比須社あり」と記し、元は火伏せの神で麻苧生産の際の竈の神で、それに商売の神が加わりました。天保5年(1834)に住人の煙草の火の不始末で大火となり焼失し、その後再建され明治4年(1871)に村社となりました。昭和9年(1934)に鎮火壱百年大祭記念碑が建てられ、境内には浅野家の家紋入りの手水盤が残っています。また毎年秋季に色づく三本の大銀杏は見事で、麻の古市の鎮守の森として古くから知られています。
安川と古市

 古代から中世までの山陽道と雲石路が交差し、旧高宮郡の要衝の地に古市の町ができ、安川と古川に挟まれていました。雲石路が旧安川を渡る地に、駅名の「古市橋」が架けられました。
 一時は可部軽便鉄道も通り石橋を車馬が通行し、旧安佐郡の交通・文化の中心でもありました。

 写真は現在の安川新橋 正面の山は阿武山
安川と古川の分岐点はこの橋の下流200mにある
胡子神社

古市の町を出て新安川を渡ると、中須二丁目の雲石路の東側に中須胡子神社の小祠があります。

安芸国内では珍しい備後地域に普及した「辻堂」で、注連縄の掛かる祭壇には地蔵尊と思しき石造物があり、本来は地蔵堂であったと思われます。『芸藩通志』の中須村絵図には、藪永下の地名があり、古川西岸の竹薮は重要な物産で、やがて商売繁盛のために胡子神社となりました。
JR緑井の今昔物語

平安初期の『和名類従抄』に安芸国佐伯郡緑井郷が載り、奈良時代には既に村落の基礎ができていました。鎌倉時代には佐東郡となり、緑井毘沙門天の信仰が起こり、武田氏以来参詣の人の波が絶えません。江戸時代には広島城下への食材や物産の生産地となり、JR可部線や国道54号線に沿う近郊農村でした。山陽自動車道のインターチェンジや、天満屋やフジグランなどの一大ショッピングセンターの完成で、交通の要衝は広島北郊の中心地に変身を遂げています。




第2日 緑井駅より可部町まで

実施日:2006年1月22日

第2日 緑井駅〜可部町の一周まで 10km 
第2日目のコースは旧国道54号線沿いを通り単調な道ですが、可部の旧市街地に入ると宿場町の雰囲気がよく感じられ、戦前の街並みにタイムスリップしたような、心躍る散策が楽しめます。

JR緑井駅

JR可部線の緑井駅は、可部線の主要駅で横川・可部間の発着駅となっています。本来は緑井毘沙門天への参詣客が利用していましたが、現在はモータリゼーションの煽りを受け、駅前に造成された一大ショッピングセンターは、近郊からの買物客が乗入れ商業地域となっています。
黄幡神社

雲石路の西側にひと際高い銀杏の木があり、その下に緑井黄幡神社があります。安芸国内では江戸時代の半ばより、唐土より伝えられた厄払いの神で、飢饉を伏せる神として祀られました。


七軒茶屋 胡子神社と水準点

雲石路に沿って江戸時代には七軒の茶屋があったといわれ、『芸藩通志』の沼田郡緑井村絵図に市ヶ坪の地名があり市が立っていました。50m先には旧安佐町役場=現広島市安佐南区佐東出張所と佐東公民館があり、旧緑井村の中心集落となっていました。神社の南側には中道酒造=現在は廃業があり、社殿や境内を私財により寄進したといわれます。



また境内の道路側には一等水準点(10.59m)があり、明治初期の国道昇格時から旧54号線に至り利用されています。




古川の風景

慶長年間に広島城主の福島正則は、太田川の流路を現在の東側に付け替えました。旧太田川の流路は「古川」となり、専ら農業用水路として利用され、護岸に沿い竹薮が点在していました。

現在は「古川せせらぎ公園」として整備され、市民のための親水護岸となり利用されています。
八木胡子神社と八木氏
 (梅林駅付近八木2丁目)

 八木城主の香川氏が開設した雲石路の市場跡で、その後福島正則は当地に「御茶屋(本陣)」を 置きました。市場の賑わいを守っていたのが「胡神社」で、南の古川の河原に造られた「梅林」 は江戸時代より見物人が往来し、「八木梅林」は昭和20年(1945)の大水害にて閉鎖されました。
八木城址と屋敷跡

 通称「城山」または「釈迦山」といわれる69.2mの山頂に、「承久の変」(1221)の後香川氏が佐東郡八木村の地頭職に任じられ居着きました。本丸は東西35m南北20mで、二の丸の西側に氏祖の鎌倉権五郎景政を祀る「権五郎神社」があります。城山の南麓は「土居」と呼ばれ城主の香川氏の居館がありました。城山の西麓に沿い「八木用水」の旧井出跡が今も残っています。
八木峠への入口

西部の秀峰の阿武山(586.8m)東麓と城山の間に、標高21.0mの「八木峠」があり、峠付近に 八木一里塚跡がありました。また『芸藩通志』の八木村絵図には「セキシロ」の地名が載って おり、かつて関所が置かれていたといわれています。

この峠は今も新旧の国道54号線やJR 可部線と雲石路が並走し、かつて可部軽便鉄道も、乗客が車両を押していたといわれています。
太田川橋と太田川船運

西から流れる太田川は安佐北区中島付近で、可部地区を流れる根之谷川と東の深川から流れる三篠川=三田川が合流します。対岸の「落合」の地名の起源で、江戸時代から帆を張った川船が航行していました。やがて水運から陸運へと、明治19年(1886)に初代の「太田川橋」が架けられ、現在は4代目の洒落たデザインとなっています。南側にはJR可部線の鉄橋が北側には国道54号線の可部バイパスに通じる新橋が架けられました。舟運は戦後すぐ廃止されました。
太田川発電所

太田川橋西詰から雲石路は西側の護岸を直進し、約1.5kmの「渡場」に至っています。渡場の手前には、江戸時代に祇園町の桑原卯之助が開削した「八木用水」の取水口があります。戦前より電源開発を進めた中国電力は、豊富な水量を上流から取水し、当地で発電用に本流に流しています。現在は発電所の傍らに、八木用水の取水口が移設され、灌漑の水量も増しています。
   昭和37年に建設 発電量:16,400KW
細野神社

阿武山系はこの地で太田川に洗われるために、狭い土地が続き「細野」の地名が起こりました。

明治4年(1871)に可部中屋の大歳神社と下細野の伊勢神社を合祀し、祭神は八幡三神となっています。後に伊勢神社は太田川発電所の傍らに移り、太田川の舟運の守護神として信仰されていました。当地は谷間にあり特に突風が常に起こるため、かつては航行の難所でもありました。
可部渡場跡

 細野神社の下に「熊野左衛門の碑」があり、嘉永3年(1850)の洪水の修復工事や雲石路の修復を私費で行い、明治8年(1875)に村民により建てられました。その続きに「常用水碑」があり、「八木用水」を完成させた桑原卯之助の子已之助が、文化14年(1817)に建てました。「渡場」は雲石路の難所で殆どが徒歩渡しで、両岸の番所に渡賃を払えば、人夫により通行できました。
◎いよいよ 可部町に入ります
 出雲石見街道の一大宿場町の可部の町は、中世に割拠していた熊谷一族がその礎をなし、古代からの真言宗福王寺への参詣への分岐点として発展を遂げました。福島正則はこの地に御茶屋=本陣を置き、五つの町名と九つの小路に続き日本三大牛馬市が開かれ、太田川舟運の中継地として栄えました。主な物産には鉄生産や山繭織を始め、清酒や醤油の蔵が建ち並んでいます。
鉄灯籠 (かなどうろう)@
 ○の数字は可部町めぐりルート内の番号

 江戸時代以来太田川から新川と呼ばれる舟入堀が引かれ、現在の明神公園は1,000uにも及ぶ溜池状の内陸舟運の発着場で、米12石積みの?舟(ひらたぶね)が50艘ほど繋留されていました。
 文化5年(1808)に可部鋳物師の三宅惣左衛門により「鉄燈篭」(通称:キンドロサン)が造られ、常夜灯として灯台の役目をなし、舟運の守護神として崇敬を集め、広島市指定重要文化財ともなっています。広島城下の本川筋にある鉄燈篭と共に、現存する江戸時代の名作でもあります。
明神社 (みょうじんしゃ) A

明神公園の向かいに太田川舟運の守護神の下の浜明神社があり、祭神は厳島明神で太田川流域の主要な浜=港にはよく見られます。宮島の管絃祭の時期に、多くの屋台や夜店が並び、水面に舟を浮かべた大祭は、俗に「チンチロビッツ」と呼ばれて親しまれ、胡子祭りや大市と共に可部三大祭りとなっています。一里塚や御茶屋や高札場の跡など、渡り町へと続いていました。
可愛神社 (えのじんじゃ) B

帆待川に沿う水主町(かこまち)には、多くの水運業者が軒を並べ、帆待川を発着場の舟入堀まで延ばし水量を調整していました。明治33年(1900)に中国太郎=可愛川の水神を祀り、水主町が氏子となり建立されました。鳥居は厳島神社と同型様式で、平成6年(1994)に建てられました。
品窮寺 (ほんぐうじ) C

古くは真言宗とも臨済宗ともいい、明応元年(1492)に現在地に移り、浄土真宗仏護寺十二坊の一つに数えられています。山門の前面の小川に雲石路に至る石橋は、明治44年(1911)に門徒の寄進で架けられました。本堂は本来禅宗様式で江戸時代中期の遺構で、鬼瓦には∴印の寺紋が付けられ、品の号で「ほんごうじ」とも称されています。広い境内には経蔵や庭園などがあり、江戸末期の商家奉公人岩田万助の記念碑や、昭和3年(1928)の水害復旧記念碑が建っています。
勝円寺と大瀛和上(だいえいわじょう)の墓碑 D

可部の街並みのほぼ中央部に位置し、雲石路の折目から西への小路の奥に、浄土真宗の古刹の勝円寺があります。当時の12代住職が、江戸時代に名声を上げた大瀛和上で墓碑があります。

大瀛和上とは、太田川上流の山県郡筒賀村に宝暦9年(1759)に生まれ、当寺の住職となり修業され、親鸞上人の「他力本願」「一心帰命」を、本願寺派の大事件「三業惑乱」から守りました。

江戸へ出向き見事に論破し、文化元年(1804)に江戸の地で客死し、後に墓碑が建てられました。


旭鳳酒造 E

江戸時代から可部周辺は肥沃な地を生かし、灌漑水路の整備により酒米がよく栽培されました。

また豊富な地下水を利用し芳醇な清酒が醸造され、慶応元年(1865)に酒蔵群は建てられました。

可部の名酒の「旭鳳」では試飲もでき販売もされ、山繭織やその道具類の展示もされています。
願船坊 (がんせんぼう) F

 願船坊は江戸時代に開かれた可部大市の東側にあり、浄土真宗の古刹で境内には幼稚園が開設
されています。旧境内地は現在可部高等学校となり、根之谷川には洗心橋が架けられています。
「がんすことば」の発祥地といわれ、広島弁の断定表現=「がんす」は既に死語となりました。
旧い家並み G

江戸時代の後期から末期の代表的遺構に藤井家住宅があり、切妻造りの町屋で窓には本格子を配しています。明治中期を代表するものに永井家住宅があり、可部の町屋の基本構造となっています。江戸前期の様式を持つ上久保酒造場で、旭鳳酒造や中川醤油醸造場も古い様式を伝えています。かつての南原屋や入江家など、文化財級の町屋数軒はことごとく取り崩されました。
折目地区 H

出雲石見街道=雲石路の幅員は7尺(2m余)で、可部宿の中央に遠見遮眼の屈曲部分の「折目」があります。約50mの東西方向の街道筋は、古代条里制の里界線遺構を利用しています。かつては高田郡吉田宿と山県郡本地と共に、郡本=代官所所在地として交通の要衝でした。また西の角に山繭織の問屋であった旧家が往時を偲びます。
胡社 I

折目地区一帯は可部の宿駅と市町の中心で、東の角に「胡神社」が置かれ、商売繁盛の守護神として祀られました。御祭神は出雲国の美保神社の御分霊といわれ、「胡町」の基本となりました。旧町では可部三大祭りの一つ「胡さん」が行われ、近在からの参詣客で賑わいました。隣の警鐘台の台座には、可部貯蓄銀行の銘が残り、代官所の跡地はその後も安佐郡役所として利用されてたのでした。
旧芸備銀行 J

可部の町で最大の鉄問屋の南原屋跡の南に、近代化の象徴として西洋風の建物が「旧芸備銀行」の跡地です。可部で最初の洋館で、後の広島銀行の前身で、現在は行貞春伺園となっています。
増井醤油 K

江戸時代より旧高宮郡の郡本として栄えた可部の町には、現在醤油醸造場としてこの増井醤油の他に、西村醤油と中川醤油の二軒が操業しています。この醸造場は明治40年(1907)の創業で、場内は見学でき販売もできます。蔀帳(ぶちょう)=開閉扉は、可部では最大のものです。
久保田酒造 L

現在可部の町には、北に旭鳳酒造(旭鳳)と白石酒造(白瀧)が、南に上久保酒造(旭鶴)と久保田酒造(菱正宗)があります。慶応4年(1868)に創業し太田川の伏流水を菱形の井戸から汲み上げ、創業百周年記念に高松宮殿下の来駕の際に、井戸に因み現在の銘柄としました。商標は版画士の棟方志功により、試飲ができ販売もされています。これに地物の鮎と蟹が加われば最高です。

佐々木センセの一口噺

雲石路のうち広島・可部間の行政的地名の変遷

 古代安芸国は太田川を境に、東に安芸郡が西に佐伯郡が所在しました。安芸郡の中心は府中で国府と郡家がありました。平安後期に南北に長い郡域を分け、安北郡と安南郡となりました。

 安北郡の中心は漢弁郷=今の可部地区一帯で、安南郡は安芸郷=安芸府中が中心となりました。

 佐伯郡では大町郷=今の佐伯区八幡地区に郡家があり、安芸国府中と古代山陽道で結ばれていました。平安後期に東西に広い郡域を分け、佐西郡と佐東郡となりました。佐西郡は種箆郷=今の廿日市周辺が、佐東郡は養我郷=今の安川流域の古市から祇園一帯が中心となりました。

 江戸初期になり、安北郡は高宮郡に安南郡は安芸郡に、佐東郡は沼田郡に佐西郡は佐伯郡になりました。太田川に沿う沼田郡の郡本=郡代官所は祇園町に、高宮郡の郡本は可部町に所在し、高宮郡の古市は古代山陽道と出雲石見街道が交差し、交通上の重要な地区でもありました。

 明治31年(1898)に高宮郡と沼田郡は合併し、新たに旧郡名の各一字をとり「安佐郡」となり、可部町に郡役所が置かれ古市や可部と、雲石路を通じて交流が持たれ、日本最初のバス交通や可部軽便鉄道や太田川舟運にも恵まれていました。昭和48年(1973)に全域が広島市と合併し、同55年(1980)の政令指定都市施行に伴い、旧郡域は安佐北区と安佐南区とに分割されました。