近世西国街道の全行程を歩きました

                                            2002.10.20   中川  正 制作

 はじめに
 2000年2月より一念発起して西国街道を歩きはじめました。当初は歩くことそのものが目的でしたが、次第に街道周辺の史跡や伝説につよく興味を惹かれるようになりました。資料を調べ地元の方々のお話を聞き、カメラを構えての街道歩きとなりました。

 JR西広島駅前を出発して、下関亀山八幡宮下の「山陽道」石碑の前に到着したのは、その年の12月初めでした。反転して東へ向かい、最終的には、約500kmの道を延べ93日、2年半かけて歩き、2002年8月9日に西宮神社の表大門の前に着きました。予定には半年遅れとなりましたが、今は歩き切った満足感に浸っています。
 西国街道はどこからどこまで ?
 どこが始点でどこが終点なのかはっきり理解しないまま歩きはじめていました。
それぞれに幾つかの主張があり、聞く人、見る資料によりいろいろの説がありましたが、とりあえず下関側は九州への渡り口にあたる亀山八幡宮前に、明治の初めに建てられた「山陽道」の碑があると聞きそれを目指すことにしました。

 上方は大変でした。西宮まで、尼崎までいや京都までといろいろ出ました。京都説は京都〜西宮間の山崎道が旧西国街道と呼ばれていることもあって、それから西に伸びる西国街道も、同一視されているのかも知れません。
 西宮神社の表大門が山崎道の終点で、そこが近世西国街道の始まりであると自分なりに決めて、下関から西宮までを歩くこととしました。
 
  出発  2000年2月4日    広島市西区己斐本町
  
 出発はJR西広島駅前から、西に向かって歩きはじめた。弁当も飲み物も持たない気軽ないでたちだった。

  写真は、草津の港への道との分岐点にある「別れの茶屋」。旅立ちの人を広島城下からここまで見送り、藤棚の下で別れを惜しんだと伝えられる。
  名物のかしわ餅は今でも売られている。
 鉾の垰       
        2000年2月29日       大竹市玖波町 
                   
 広島県西部は、山が海岸線に迫り、断崖となって海に突き出ている個所も多く、街道は山中へ分け入り峠越えを繰り返した。山口県境の木野川の渡しに着くまでには、四郎峠、四十八坂、鉾の垰、苦の坂など難所続きであった。

 鉾の垰は草木が繁茂し、けもの道のようなわずかな跡を頼りに通行した。現在は地元の方のご尽力により、道の整備が行われている。
 苦の坂は小方側からの登り道が山崩れで塞がれたまま放置されており、がけ下から畑の中を失礼して登る。地元の大竹市が「歴史の散歩道」として整備された道であるが、崩れたままになっているのは残念である。
                   写真は鉾の垰に残る石畳の道
 木野川渡し場跡
        2000年3月15日       大竹市木野町 

               
 
広島と山口の県境である。船渡しの場所で、船守り番所は山口県側にあり渡し守りは双方から出ていた。
 この一帯は幕末の長州戦争の激戦地(芸州口の戦い)であった。

 山口県に入る
 関戸本陣跡
          2000年3月21日    岩国市関戸町   

 関戸峠を下って、城山(岩国城)の北を流れる錦川が眺められるところまで来ると関戸の宿である。谷あいの狭い街道に沿い50〜60軒の家屋がひっそりと並んでいる。昔はこの地に関所が置かれていたこともあり交通の要衝であった。


写真は崩れかけた土塀の残る関戸本陣跡
 呼坂宿 
          2000年4月9日
  熊毛郡熊毛町呼坂 

 岩国から徳山までの街道に沿ってJR岩徳線が走る。山陽本線の敷設が、地元の反対で柳井方面の海岸沿いに変更され、繁栄を極めた西国街道(旧山陽道)沿いの町はすっかりさびれてしまった。その後猛運動の結果岩徳線の開通となったが、この鉄道工事により街道はあちこちで寸断されてしまった。
 岩国、徳山のほぼ中間の呼坂には本陣が置かれていた。往時の雰囲気を今なお残す宿場町である。
 花岡八幡宮 多宝塔
           2000年5月3日
 下松市末武上 花岡

 
「七里香」という樹があり、郷中に花の薫香をまき、落花散乱して町中に満ちたとのことから「花岡」という地名がつけられたという。
 奈良時代からの宿場町で、本陣をはじめ勘場や番所などが置かれ、旅籠や商店が立ち並び行き交う人で賑わったという。現在は旅館は一軒もなく、食堂さえ探すに一苦労する静かな町に変わっている。
 町の中心の花岡八幡宮に、秀吉の朱印状をはじめ多くの古文書類などが所蔵されている。




写真は花岡八幡宮の多宝塔
 建石
           2000年9月5日
   山口市  立石

 
春日神社参道の鳥居のすぐそばに、街道に沿って高さ1.5m、幅1m弱、厚さ20cmばかりの平たい石が立っている。傍らの説明文によると「昔から平石、平岩、建石,立石と呼ばれているが、いつ頃、誰が,何のために建てたか分からない。行程記などに往古よりこの所にありと書かれている」とある。この場所には赤間関より十五里の一里塚があった。
 周防・長門国境の碑
         2000年10月26日  宇部市山中 割子松 

 現在の山口市と宇部市の境界である。かっては街道松が30本程度並んでいたようであるが、昭和50年代に入って枯れてしまい今は1本も残っていない。
 割子松の地名は、防長の境にあった松を両国の農民が争って割り取りしたことにより名づけられたという。






写真は江戸時代に立てられた国境碑      
 岡崎八幡宮
        2000年11月16日    厚狭郡楠町 船木 
 

 岡崎八幡宮は古くから船木地方の産土神として崇敬されてきた。社前のクスノキの巨木にはキセル貝という巻貝が寄生しており、潮の干満につれて幹を上下するといわれ、海上安全のお守りとして珍重されてきた。
 この地方の中心として栄えた船木も、今は鉄道の駅が置かれたお隣の厚狭にその位置を譲り、時代の流れから一歩外れてしまったようだ。


写真は岡崎八幡宮のクスノキ
 吉田本陣跡跡
        2000年11月23日   下関市吉田
 
厚狭から下関へは、中世までの山陽道は埴生に向かっていた。公道としての山陽道が変更になり、萩往還との分岐点にあたる吉田の宿を通ることとなったが、蓮台寺峠を越す街道は難所続きで、禁止をしても埴生道を利用するものも多かったようだ。
 蓮台寺峠の山越えの道はすっかり野に帰っており、無理やり登ろうとして2時間山中を彷徨してしまった。
写真は吉田道と埴生道との分かれ道の道標
    右は吉田本陣跡
 下関到着  2000年12月5日     

 山陽道基点の碑  (亀山八幡宮前)
       

 亀山八幡宮の大鳥居の下に「山陽道」の碑が建つ。明治11年(1878)9月、渡船場が新築された際に建てられたといわれる。
 昔は亀山八幡宮の下は海で、石段下まで波が打ち寄せていた。渡し場があり船番所が置かれていた。
 西国街道の呼び方もさまざま

 近世西国街道に対する呼び方も、地域によって、人によって様々でした。広島藩では西国街道もしくは西国路として「広島県史」をはじめ多くの文献に統一的に使用されていますが、地元では「旧山陽道」と書かれた看板や碑が多く建てられていました。特に備後地方では西国街道とはほとんど呼ばれていないようでした。
 山口県と岡山県内では旧山陽道もしくは山陽街道と呼ばれ、西国街道はまったく使われていないようでした。兵庫県内では多くは西国街道と呼ばれており、時に旧山陽道が使われていました。

 広島本通りが西国街道筋

 毛利輝元が広島城を建設し、西国街道を城下に引き入れた時点では、街道は城の北側を通っていた。街道を城郭南方に移し現在の本通りを通るようにしたのは、福島正則の時代といわれているが、その時期は明らかでない。
「広島本通商店街のあゆみ」によると、元和元年(1615)に現在の赤松薬局が備中金川村から移住してきて薬種商「金川屋」を開業したのが広島本通商店街の先駆けとされており、その時期までに西国街道の移設も完了したのであろう。
 
写真は本通り赤松薬局
 大山峠
         2000年10月4日
東広島市八本松宗吉

 広島から東に向けては、山口県に向かって歩く間を見はからって、少しづつ平行して歩き始めた。
 大山峠は、「なんだ坂、こんな坂」と唄われたように、かっては蒸気機関車を二台前後につけて登ったという難所である。
 峠にさしかかると、「代官おろし」の碑がたち、代官様でも殿様でも駕籠から降りて歩いたという山道が続いている。



写真は大山峠の頂上の碑
 西条四日市本陣
         2000年10月17日
 東広島市西条本町

 西条四日市は、安芸国分寺の門前市として栄えた町であったが、昭和7年に国分寺の発掘調査が進むまでは、闇に埋もれた存在であった。また、本陣の場所も昭和46年になってようやく確認された。
 本陣は、元郡役所跡、現在の賀茂鶴酒造本社の位置にあり、広島藩最大の規模であったといわれる。



写真左は西条四日市本陣跡
   
 日向一里塚 発掘現場
   (広島県埋蔵文化財調査センター報の写真)

 日向一里塚は松子山山中にあり、その所在地がはっきりしていなかったが、自動車道建設工事の中で発見された。
 2000年10月14日に埋蔵文化財調査センターにより遺跡見学会が行われその全貌が紹介された。
 現在は既に埋め戻しがされ道路工事が継続中であり、遺跡は他に移し復元の予定とされている。
 松子山を越えて上三永、石立へ向かう山中の街道は、明冶10年、山麓に国道が布設されてから捨て去られてしまった。街道は荒れ果て谷川と化して通行は困難であったが、地元の方々の努力により整備が行われ、なんとか通行することができた。

      2001年10月27日  東広島市西条町 松子山
 この奇怪な花は、バナナの花です。
 南国の植物が、なぜか初冬の山村の街道沿いに花をつけたまま残っていました。

    2000年12月19日
          竹原市西野町宝器にて

 なお、翌年12月に同じ場所を歩いたが、バナナの花は咲かなかった様子で、萎びた芽茎しかみつかりませんでした。


 安芸・備後国境  仏ケ峠
          2001年1月19日
 三原市 新倉町
 
 仏ケ峠は安芸と備後の国境で、現在県立保健福祉短大のすぐ前に、明治と大正に作られた国境の碑が道路を隔てて二本たっている。
 
写真は明治11年の銘を持つ国境碑
 尾道 浄土寺 多宝塔(国宝)
          2001年2月15日
 尾道市東久保町

 聖徳太子の創建と伝えられるこの寺は、足利尊氏ゆかりの寺としても有名。本堂、多宝塔は国宝、山門、阿弥陀堂は国の重文に指定されている。
 新田義貞、楠木正成に敗れた足利尊氏は、九州に逃れる途中、尾道に立ち寄り浄土寺に参詣し戦勝を祈願した。
 境内には足利尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。





写真は浄土寺多宝塔 
 防地峠 広島藩・福山藩 藩境
          2001年3月2日
 尾道市高須町坊士

 福島正則の改易に伴い、広島藩を分割して福山藩が設置され水野勝成が入府した。広島、福山両藩の備後南部の境界は、尾道の浄土寺山の稜線を北に走らせ、その線の西を広島藩に、東を福山藩とし公道は防地峠で通じることとした。両藩ともここに関守を置いていた。

写真は福山藩の番所址 
 神辺本陣  
         2001年4月2日
  深安郡神辺町三日市

 神辺には本陣が東と西の二箇所にあった。
 水野勝成が福山入府後、直ちに居城を神辺から福山に移し、その後神辺は宿場町として発展してきた。
 今は西本陣だけが現存し、当時のままの姿を見ることができる。なお、西本陣は筑前黒田家の専用の本陣となっていたらしく、屋根瓦に黒田家の紋が使われている。
写真は黒田家の藤巴紋と神辺本陣札の間

 岡山県に入る
井原市
    田中美術館
 
井原市井原町にあり、彫刻界の巨匠平櫛田中の作品が保存展示されている。
 矢掛本陣
          2001年5月20日
  小田郡矢掛町

 宿場町として賑わった矢掛は、今も昔の面影を残しているが、やや観光化され過ぎたきらいを感じるのは私だけであろうか。
 矢掛本陣は、西国街道に残るいくつかの本陣の中でも、特にその保存に意を尽くされている。内部が開放されているのもありがたい。国指定重要文化財となっている。

写真は矢掛本陣石井家住宅
 吉備路
          2001年7月5日
  総社市上林

 吉備路は文化遺産に富み、古墳時代からの遺跡が重層的に分布し、歴史的風土に育まれた地域である。吉備路を東西に横切る西国街道(旧山陽道)には、古い町並みが点在する。備中国分寺跡付近にも、古い街道の面影があちこちに残されている。

 


写真は備中国分寺  五重塔
 板倉宿
         2001年8月23日
  岡山市吉備津 板倉

 尾道を過ぎると、「中国行程記」の一里塚への旅程は「板倉から何里」と表記されている。備中の基点となる宿場町であった。
 板倉宿には本陣のほか、多くの茶屋や宿屋が置かれ「行程記」にも「茶屋有り、遊女多し」とあり、その賑わいぶりは相当なものであったようだ。
 なお、板倉宿から東へ500m進むと吉備国総鎮守の吉備津神社の参道の入口である。
写真は板倉の町並み
 香登 一里塚跡
          2001年10月14日
 備前市香登本町

 写真の石垣は一里塚の名残りといわれる。
 香登から伊部にかけては備前焼きの窯元が軒を連ねており、町のあちこちの窯から、もくもくと煙が立ち昇っている。


右の写真は神社に奉納された備前焼の狛犬
 船坂峠
    2001年11月8日
 備前市三石 船坂峠

 船坂峠には新旧4本の山陽道が走っており、時代と共に下に移動してきた。最古の山陽道は探りようもないが、西国街道(旧山陽道)は元禄16年(1703)に建てられたという「従是西備前国」(写真)の辺りを通っていたのであろう。その後明治初年に峠の一部を約10m掘り下げ旧国道が建設され、西国街道は廃道になった。現在は国道二号線の開通により、旧国道も歩行者、自転車専用道として再整備されている。
 なお、廃道となった西国街道は荒れ果て、分け入ってみたが、行く手を阻まれて通行はできそうにない。

兵庫県に入る
 相生駅前 赤穂との分かれ道
          2001年11月20日
  相生市陸本町

 相生駅前は再開発が進み、町は大きく変貌している。駅前に赤穂街道との分岐点を示す道標があるが、何度も移転の憂き目に遭っているらしい。



 写真はかなで書かれた道標 
 姫路城下
          2001年12月5日


 姫路城下の最大の繁華街である二階町商店街を西国街道が貫いている。
 姫路城は羽柴秀吉が天正9年(1581)に3層の天守閣を築き、関が原の合戦後、慶長六年(1601)に入府した池田輝政が8年の歳月をかけて、5層の天主閣を持つ現在の姫路城を完成させた。





写真は二階町商店街
 加古川宿の陣屋
          2002年1月30日  加古川市寺家町


 江戸時代に西国街道の宿場町として栄えた「加古川宿」は、現在の寺家町商店街にその名残りを留めている。姫路藩の役所として1705年にたてられた陣屋の建物は、今もその面影を残している。



写真は人形の店陣屋の店頭
 明石 善楽寺 平清盛の供養塔
          2002年4月2日  明石市大観町


 古い歴史を持つ明石には、いたるところに由緒ある史跡や名勝が点在している。柿本人麻呂らによって詠まれた「万葉の歌」の数々や「源氏物語」のゆかりの舞台など歴史のロマンは尽きない。また、源平の戦いの戦場となり、あちこちに平氏の想いを偲ばせる史跡がみられる。





写真右は平清盛の五輪塔
   左は「源氏物語」の舞台となった「蔦の細道」
 
敦盛塚
        2002年5月21日  神戸市須磨区一の谷町

 神戸市垂水区と須磨区を分ける境川が播磨と摂津の国境である。ここは単なる国境ではなく、畿内と畿外との境でもあった。須磨という地名は、この畿内の隅がなまってスマとなったという。


 写真は、一の谷の源平合戦で、源氏の熊谷直実に討たれた平敦盛を供養する五輪塔である。往来する大名や旅人たちが「敦盛塚」に香華を手向け、「敦盛そば」を名物とした茶店で一休みしたという。
 湊川神社
  2002年7月4日 
    神戸市中央区多聞通

 JR神戸駅の北にある湊川神社は楠木正成を祭る神社で「楠公さん」と呼ばれている。
 境内には水戸光圀の書になる「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑が建つ。(写真左)

神社正門の前に「兵庫県里程元標」が建つ。(写真右)
 西宮えびす神社 2002年8月9日 西宮市社家町  到着     全行程を踏

 写真左は豊臣秀頼が再建した表大門。京都山崎街道はここを始点として東に向かい前にまっすぐ延びる。
 右の灯篭は神社東南角の策の中にある道標。「左 大坂 京都」「右 兵庫 はりま道」
 歩き終えて感じたこと (今後再整理をして問題提起をしたい)

・街道の史跡の位置が分らなくなっている所が多い。地元で幾つかの碑を建てられてはいたが、多くの場所は何もなく、近所の人も史跡のあったことさえ知らないと云われることが多かった。(地元教育委員会でもあまり把握されていない。)
 また、道標は破損したものや、移設後建て位置が変わり、示す方向が逆になっているものもあり、管理が不十分であった。

・街道松も残っているものがごく僅かであった。その中には枯れ始めているものもあり、早急に保全の措置が必要と感じた。(広島五日市楽々園裏)

・既に廃道となり通行不能の峠道は仕方がないとしても、荒れ果てたまま放置された道もある。今回は難渋しながらも何とか歩いたが、今整備をしなければ折角の街道も山野に帰り、通行出来なくなってしまいそうだ。
  (広島 大竹苦の坂、松子山、日名内  山口 防府佐野峠 宇部どんだけ峠、 兵庫 有年峠)